2002年2月27日(水)「しんぶん赤旗」
日赤従軍看護婦の会の肥後喜久恵さん(78)は、全労連などの開いた有事法制学習討論集会(二月七日、東京)に「有事法制阻止に向けてご一緒に…」とメッセージを送りました。「ふたたび白衣を戦場の血で汚したくない」という肥後さんの思いを聞きました。
アメリカのおこす戦争に日本を巻き込む戦争法(周辺事態法)ができましたが、いま政府は引き続き有事法制をつくろうとしています。
これができると、看護婦は真っ先に動員されると恐れています。
私が勤めていた日赤(日本赤十字社)は、第二次世界大戦中、多くの「戦時救護看護婦」を戦地に送り出しました。
その数は三万人近くに及び、死傷者は約五千八百人といわれています。
国民の権利を統制して戦争に動員する有事法制は、あの戦前をほうふつとさせます。
私が十四歳のときの一九三八年、有事立法の一種の国家総動員法ができました。
私の家は貧しい「二反百姓」でしたが米や野菜はもちろん、大事な馬や鉄びんや火ばしまで供出しました。
「お国のために」という教育が徹底していましたし、姉と二人の「出征者を出さない家」は肩身が狭い状態でした。
そういう時代のなか、「私も出征しよう」と四二年四月、日赤の看護学校に入学し、四四年三月、「赤紙」で従軍看護婦になりました。
中国の陸軍病院でのおもな任務の一つは、地元の女学生に看護教育をすることでした。一年半で終戦を迎えますが、そこから地獄絵図のような体験をしました。
二百五十人の生徒たちや患者とともに逃げました。「いざというときは生徒たちを…」と青酸カリと注射器を持たされました。実際、他の部隊では、重傷者や歩けなくなれば、上官から薬殺の命令が出されたそうです。
敗戦から十三年後、ようやく日本に帰ってきた私は、「二度と戦争に協力したくない」「“生きる”手助けをする看護婦が患者を戦地に送りたくない」と願って生きてきました。
残念なことに、五〇年に始まった朝鮮戦争では、九州地方の看護婦に再び招集がかかり、米軍博多キャンプの野戦病院に勤務させられました。
日赤、国立、公立、民間から千人以上の看護婦が、米軍看護婦の指揮下で傷病兵の治療にあたらせられたといいます。
こんなことを繰り返させたくありません。
青春を侵略戦争で失った私は、若い看護婦さんたちに声を大にして訴えたいのです。「ふたたび白衣を戦場の血で汚したくない。戦争をしないとうたった憲法九条を守りましょう。一緒に有事法制に反対しましょう」と。
ひご・きくえ 一九二四年長野県生まれ。日赤甲種救護看護婦養成所卒業後、四四年従軍看護婦として中国・大連などの陸軍病院に勤務。五八年に帰国し、東京の代々木病院に勤務。退職後は戦争の語り部として活動。
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