2002年4月12日(金)「しんぶん赤旗」
「有事立法と聞いただけで、いやな思い、つらい思い、涙が流れる思いがよみがえってきます」。政府が国会に提出しようとしている有事立法案について、さいたま市の細沼務さん(74)は、こう語ります。(藤原 義一記者)
太平洋戦争のときのことです。
細沼さんたち早稲田実業学校(東京・新宿)の五年生二百五人は、一九四四年四月八日から、現在の武蔵野市にあった兵器工場・中島飛行機武蔵製作所の西工場に動員されました。細沼さんは十六歳でした。
同年三月七日に閣議決定された「決戦非常措置に基づく学徒動員実施要綱」にもとづくものでした。有事=戦争体制の一環でした。
同製作所の敷地は、五十六万平方メートルという広大なもの。従来の従業員に、徴用工、男女の動員学徒、軍人などを加え五万人が働いていました。
海軍機のエンジンを製作する西工場は地下一階、地上三階。細沼さんは、シリンダーのピストンの三本の溝を研磨する仕事を担当しました。立ったままの作業でした。
始めは朝から夕方までの仕事でしたが、六月末ころからは二十四時間稼働の三部制勤務になりました。一週間交代で、一部=午前七時半〜午後三時半、二部=午後三時半〜午後十一時半、三部=午後十一時半〜午前七時半の勤務でした。二部の勤務のときは製作所の宿舎に泊まり込みました。
後に十二時間労働の二部制になりました。
海軍の軍人が二人、後ろに回した両手に「海軍精神棒」と書いた一メートルほどの木のバットのような物を持って、それをずるずると引きずりながら、体をゆすって歩き回っていました。
「軍人がくると隣の工員がひじで、つんつんとつつき、『しゃべったら、やられるぞ』とささやいて知らせてくれました」と、細沼さん。
午前零時の食事の後、仲間と工場の屋上で仰向けに寝そべって星を仰ぎながら「おれたちは、何のために生まれたんだろうなぁ」「おれらは、あの星くずだよ」「このまま死んでしまうのか」と小声で語り合いました。
同製作所も戦場でした。米軍機の空襲が同製作所を襲いました。十一月二十四日、十二月三日、同二十七日、翌年一月九日、二月十六日……。
「近くの棟の屋上に二百五十ポンド爆弾が落ちました。かけつけて、その棟の三階から下を見ると、地下まで大きな穴が開いていました。二階の電線に飛び散った腕や下半身が引っかかっていました。見かねて、それを棒で落としましたが、そのときのピシャァーという音が忘れられません」
細沼さんは涙ぐんで振り返ります。
同製作所は、壊滅状態になりましたが、東京・八王子の高尾山のふもとに地下工場をつくって移転する計画があり、細沼さんたちも、三月二十三日から、その作業に動員されます。
八人ほどで、木のコロ(丸太)を使って旋盤を壕に入れていたときでした。学生の一人が、片ひざをついて、終わったコロを前に入れようとして、左手を旋盤の下にまき込まれてしまったのです。ロープで引っ張っていた細沼さんが「止まれ、止まれ!」と叫びましたが、間に合いませんでした。
当時のことが書かれた同窓会の本を示しながら話す細沼さん。
「アメリカの指揮下の戦争の準備をし、それに国民を動員する有事立法を作らせてはいけません。戦争ほど悲惨で、みじめなことはありません。戦争は二度としたくありません。これからの人に、私たちのような思いをさせたくありません」