2002年9月4日(水)「しんぶん赤旗」
日本共産党の不破哲三議長が、中国社会科学院の要請で八月二十七日におこなった学術講演・「レーニンと市場経済」の大要は、以下のとおりです。
みなさん、こんにちは。日本共産党の不破哲三でございます。私は、国外で学術講演というものをするのは、これが初めてであります。
社会科学院でさまざまな分野の理論研究に携わっているみなさんの前で、こういう機会を与えられましたことは、たいへん光栄に思います。
きょう、お話しするテーマは、「レーニンと市場経済」です。なぜこの問題を選んだかといいますと、これは広い意味で中国と日本の共通する問題だからです。
中国では十年前の党大会で「社会主義市場経済」という方針が決められましたが、それ以前からこの問題に実践的にとりくんでこられました。
そして、みなさんは、「市場経済を通じて社会主義へ」向かうという道を探究されています。
私たちの日本は資本主義市場経済のただなかにあります。私たち日本共産党は、将来、一連の段階を経て、社会主義に進むことを展望しています。その道は当然、「市場経済を通じての社会主義」、あるいは「計画経済と市場経済の結合」という道になると思います。
そこには、世界史のうえでの新しい発展もありますし、また科学的社会主義の理論と実践にとっての新しい問題もあります。
私は一九九八年から二〇〇一年まで、さきほどご紹介のあった「レーニンと『資本論』」という研究をしまして、雑誌に三年間あまり、四十回ほどの連載をしました。これはレーニンの理論的なとりくみの全体を、若い時代から亡くなるまでの生涯にわたって追跡しようとしたものです。
そのレーニンが、一九二一年から病気で倒れる一九二三年まで、最後の三年間にとりくんだ理論的な問題のなかの一番大きなひとつが、市場経済と社会主義の問題でした。
マルクスとエンゲルスは、もちろん科学的社会主義の理論の創設者であり、大先輩ですが、社会主義の建設の問題に現実の課題としてとりくんだことはありませんでした。理論の問題としても、市場経済と社会主義という問題を本格的にとりあげたことはなかった、と思います。
だからレーニンは、その問題に挑戦した最初の共産主義者でした。そのとりくみの過程でレーニンはいろいろ悩みましたし、自分の考え方を百八十度ひっくり返すような大転換を経験しました。私は、先人がそうして苦労したとりくみの過程をふり返ることは、現代の問題を考える上でも、大事な教訓になると思っています。
レーニンの活動をふり返りますと、ロシアで社会主義革命、十月革命が成功したとき、レーニンの頭には、市場経済の活用という考えはひとかけらもありませんでした。
彼は、社会主義は市場経済とは両立しない、それが原則だと思いこんで、革命後の経済建設にあたりました。とくに外国の干渉と反革命に反対する戦争のなかで、その傾向はより強まりました。
当時、レーニンが考えていた共産主義経済というのは、工業製品は国営の工場でつくる、穀物は農民がつくるが、農民が食べる分以外の「余剰」はすべて国が買い上げて、国家の手で国民に配給する、これが共産主義の経済だというものです。いまは戦争で苦しいが、しかし、この道を進んでいけば、やがては自国の工業も発展して、農民にも国がトラクターや肥料など、必要な物資を豊富に提供できるようになる――こういう方針でしたから、「市場経済」とか、「商売の自由」などは社会主義建設の敵の旗、反革命のスローガンだとされ、市場経済になれてきた国民、とくに農民の頭から“市場経済けっこう”という考え方を根絶することが、共産党の最大の任務だとされました。
これがのちに「戦時共産主義」といわれるもので、一九二一年のはじめまで続きました。
しかし、この方針は、現実の社会に、なかなかたいへんな矛盾をひきおこしました。反革命や外国の干渉軍との戦争のときには、農民も苦しくてもある程度がまんします。しかし、干渉と反革命を打ち破って平和がかちとられると、農民の不満は激発するようになり、一部には暴動もおきました。当時の首都のレニングラードの近くにクロンシュタットという軍港があって、これは革命の拠点の一つとされていました。そこの革命的な水兵たちまでが反乱に立ちあがり、そういう反乱のなかでは、「商業の自由」、「売買の自由」が、切実な要求の一つとしてあげられました。
それで、当時のロシアの指導者のなかで、この危険な事態の深刻さを最も真剣に見て取ったのはレーニンでした。
どうしたら社会主義の政権と農民との関係を改善できるか、新しい社会をめざすためには、労働者と農民の同盟が欠くことができないのだが、それをどうしたら確立できるのか。この時期のレーニンの発言や論文には、それを真剣に考えた苦悩のあとがつよく刻まれています。
しかし、そのレーニンにしても、いままで市場経済といえば反革命のスローガンだと思いこんでいたわけですから、市場経済を認めるところにたどりつくまでには、たいへんな勇気と決断が必要だったのです。
新しい政策は、「新経済政策(ネップ)」と呼ばれて、一九二一年三月から始まりました。いまネップといえば、市場経済を認めたことだとよくいわれますが、これは正確ではありません。レーニンは最初は、大転換をかかげてもそこまでは踏み切れなかったのです。市場経済ぬきの改革の方向はないかと考えて、「生産物交換」、つまり農村の生産物である穀物と、都市の生産物である工業製品との物々交換という方法を提起して、決定したりしていました。しかしそれはものになりませんでした。
そういう模索を半年も続けたあげく、これ以外に道はないという結論を出して、市場経済を認めることに正面から踏み切ったのが、一九二一年十月でした。
レーニンにしても、これだけ悩んでようやく出した結論ですから、それが発表されたときには、党内で大騒ぎになりました。
『レーニン全集』には、この時期のある会議の記録――レーニンの報告と結語がでていますが、そこには当時の騒ぎのようすが、よく表れています。ある同志は「われわれは牢獄(ろうごく)で商売のやり方など学ばなかった」と発言しました。ある同志は「商売のような不愉快な仕事を共産主義者がやれるものか」と発言しました。こういう声が次々とあげられるなかで、最後に結語に立ったレーニンは「不愉快な課題に直面したからといって、それを回避したり、それに落胆したりするのは、革命家に許されないことだ」という調子で、説得的な批判をおこなっています。
市場経済の問題の探究は、こうして始まったものです。すなわち、ロシア革命のなかで、市場経済論の出発点になったのは、農民との関係を改善しようという政策でした。
しかしレーニンは、この道に踏み切った後は、そういう部分的な問題にとどまりませんでした。ただちにこの問題をさらに徹底的に研究して、ロシアの革命と社会主義の運命にかかわる大方針、「市場経済を通じて社会主義へ」という方針にこれを発展させました。
それは、当時の文書をふり返っても分かるように、実に見事な急転回でした。その方針を整理してみますと、だいたいこの方針の骨組みは、次のようなものが柱になっていたと思います。
第一が、市場経済を舞台に、資本主義と競争しても負けない社会主義部門をつくり発展させることをめざすという問題です。「部門」というのは、レーニンは「ウクラード」というロシア語を使っています。これにぴったりあたる言葉が、日本語にも、恐らく中国語にもないのだと思いますが、分かりやすいように「部門」と表現しました。
第二は、市場経済の中から、私的な資本主義が生まれ発展することも、それから、外国の資本主義が協定を結んで入ってくることも、一定の範囲内で認めることになりますので、これも非常に重大な転換でした。
それ以前の時期に、「市場経済は敵」としていた根拠の理由の一つが、市場経済を認めれば当面は小生産者の小規模な商品生産であっても、その中から必ず資本主義が生まれる、それを強めるわけにはゆかないというのが、ロシア革命での論理だったからです。
第三は、経済全体の要をなすものは、社会主義の部門としてしっかり確保するということです。その要をなす部門のことをレーニンは、「瞰制高地(かんせいこうち)」と呼びました。それは当時の軍事用語で、大砲で打ち合うような時代ですから、高い高地で戦場全体を見通せるところを占領するのが、勝敗の要だったのです。
余談ですけれども、二年前に日本共産党の大会をやった時に、外国の来賓の方に、スリランカからIT大臣という方がきました。その人と話したら、“私どもは経済の瞰制高地を握るために努力している”といいますので、ちょっと驚きました。私が“懐かしい言葉を聞いた”といって笑いましたら、実は、若いころモスクワで勉強したことがあるのだという回答でした。
第四に、社会主義の部門が経済的な力をつけるために、資本主義から学べるもの、吸収できる先進的なものは徹底的に吸収し尽くすという問題です。
第五に、農民との関係では、工業力の発展とともに、将来は協同組合化をめざすが、そのさい、上からの命令や強制力の行使は絶対に禁止する、協同組合は、農民の自発的な意思でつくるという自発性の原則を厳しく守るという問題です。
レーニンは、この方針を確立して一年五カ月後、一九二三年の三月に病気で倒れ、その後、政務には復帰できないまま一九二四年一月に亡くなりました。レーニン後の時期にソ連の党と政府の指導権を握るようになったスターリンは、一九二九年から三〇年代初頭にかけて、農民から穀物を強制的に確保するために、いわゆる“農業集団化”を強行しました。
もともと農民との関係を改善することが、「新経済政策」の出発点でした。上からの命令による“農業集団化”は、「新経済政策」の事実上の終結宣言でした。それ以来、「市場経済を通じて社会主義経済へ」の方針は、ソ連には復活しませんでした。
数十年後、ゴルバチョフの時代に、「市場経済の導入」が問題になりました。しかし、その六十年の間には、ソ連自体の姿が変わっていました。スターリンの時代とそれ以降の時代のなかで、大きな体制的な変化が進行しており、ソ連社会は、すでに社会主義も、社会主義への方向づけも存在しない体制に変質させられていました。
その意味では、中国やベトナムがいま挑戦している「市場経済を通じて社会主義へ」という道は、世界史の上でまだどの国も歩き通したことのない道だと思います。
私はこの七月に日本共産党の創立八十周年の記念講演で、二十一世紀に世界を前向きに動かす力がどこで働くかということについて話しました。そのとき、世界を動かす二十一世紀の大きな力の一つとして、あなた方の挑戦をあげ、次のような位置づけをおこなったことをここで報告しておきたいと思います。
「ソ連は解体しましたが、レーニンの名前と結びついた社会主義の事業が消え去ったわけではありません。中国、ベトナム、キューバなど、社会主義をめざす新しい事業にとりくんでいる国ぐにが、現に存在しています。これらの国ぐにがいまかかげている、『市場経済を通じて社会主義へ』という方針は、かつてレーニンが提起し、スターリンが捨て去ったものであります。これは、だれも最後まで歩き抜いたことがない新しい挑戦であるだけに、その前途にははかりしれない困難があるでしょうが、この挑戦の成果が二十一世紀の世界の流れに必ず大きな影響を与えるであろうこと、私はこのこともまた間違いないと考えています」
そういう意義をもつ問題であるだけに、この道の前途には、理論的にも、研究すべきいろいろな問題があると思います。
とくに二つの点についてのべたいと思います。
一つは、市場経済の道が社会主義に到達する道として成功するためには、なにが必要か、という問題です。
レーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という道を進んでゆくとき、その社会の経済は、社会主義部門、国家資本主義部門、私的資本主義部門、小商品生産部門などが並立して協力しあったり、競争しあっていく関係になることを、よく分析しました。そして、その道が、資本主義に逆転する道となるのではなく、社会主義に到達する道として成功するためには、なにが必要かということについても、多くの独創的な提言をおこないました。そこには、現代においても、耳を傾けるべき教訓が含まれていると思います。
レーニンが第一に強調したのは、社会主義部門が、市場での競争を通じて、市場での競争で資本主義に負けない力をもつようになること、その立場で、内外の資本主義から学べるものは学び尽くすということでした。
レーニンが掲げたスローガンにはこういうものがあります。
「ヨーロッパ的に商売のできる一流の商人になろう」
“牢獄で商売のことなど学ばなかった”と叫んだ人たちには、なかなか厳しい要求だったようです。レーニンは、ただ商売ができるというだけではだめだ、ヨーロッパに負けない、抜け目のないヨーロッパ商人に負けない熟達した商人になろう、こう呼びかけたのです。
もう一つのスローガンには、こういうものもありました。
「国有企業などの社会主義部門を、資本主義企業との競争で点検しよう」
レーニンがいう「資本主義に負けない」ということは、生産性の問題とか、経済の効率とか狭い意味での経済的利益だけでないことに、私は注意する必要があると思います。
レーニンは、たとえば労働者の職場での安全の問題について、資本主義のもっとも優れたものを確保せよという論文を書いたことがあります。つまり、「資本主義に負けない」ということには、いまでいえば環境の問題、公害の問題など、そういうことも含まれているということです。そういう面でも、社会主義ならではの優位性を発揮しようじゃないか、という提起でした。
第二は、経済全体の要をなす、さきほどの「瞰制高地」の問題です。これを社会主義の部門としてしっかり握って、経済発展を方向づける力が発揮されるようにすることです。レーニンが、「瞰制高地」の具体的な内容としていったのは、当時のロシアの現実では、「工業と運輸の分野の生産手段の圧倒的な部分」(レーニン)を社会主義国家が握っているということでした。しかし、これは当時のロシアの条件の下でのレーニンの考えで、何が「瞰制高地」の役割をはたすかということは、その時代、その国の条件によって探究されるべき問題だと思います。
第三は、市場経済が生み出す否定的な諸現象から社会と経済を防衛するということです。
市場経済は、もともと無政府性や弱肉強食的な競争性をもっています。そこから雇用不安、失業、社会的な経済格差などの問題が生み出されます。そういう矛盾を抑えていく力は、市場経済自体は持っていません。これを抑え制限するためには、社会保障制度をはじめとする、いろいろな社会的な規制が必要です。
レーニンは「新経済政策(ネップ)」に転換して以降は、この問題で特別な発言はしていませんが、この分野では非常に興味深い歴史があります。社会保障制度の原則というのは、十月革命の後、ソ連政府、革命政府が宣言したのが世界で最初でした。その諸原則がその後、資本主義の世界に大きな影響を及ぼし、市場経済の害悪を資本主義なりに抑制する社会的規制がそこから始まったというのは、教訓的だと思います。
また市場経済の否定面としては、金がすべてという拝金主義や各種の腐敗現象を必ず生み出すことをあげなければなりません。こういう腐敗の傾向が、社会主義の精神をもっとも強くもっていなければならないはずの公的な機関を汚染すれば、それは、官僚主義、専制主義をひどくする働きをします。この問題にたいして、レーニンは、公的機関そのものの自己規律とともに、人民的な監督と点検という活動の重要性を声を大にして繰り返し強調しました。そのためにも、国民全体の文化水準を高めて、国民一人一人がそういう役目をはたす力をもつようにすること、これがレーニンが最後の時期に強調した点の一つでした。
以上のことに若干の今日的な問題を付け加えますと、いま、世界の資本主義体制自体にとっても、市場経済万能主義か、それとも社会的規制、民主的規制を確立した市場経済かという問題が、大きな争点になっています。ごく大ざっぱに言えば、前者の傾向はアメリカに、ブッシュ政権下のアメリカに非常に強烈に現れており、後者の傾向は現在ヨーロッパ諸国にかなり強く現れています。このことは、環境問題、社会的格差の問題、各国経済の自主性の問題など、世界的な経済問題とも結びついています。
市場経済を通じて社会主義をめざす国が、そしてその経済体制が、社会進歩の立場でこれらの分野でも優位性を発揮するということが、今後の世界史的な視野での探究の重要な方向になってくると、私は思います。
研究すべきもう一つの問題は、より理論的、より将来的な問題ですが、「計画経済と市場経済の結合」という道を成功のうちに進んで、社会主義の目標に到達した場合、市場経済はどうなるのか、消滅してしまうのかそれとも残るのか。もし残るとすれば、いつまでどの範囲で残るのか、という問題です。
私はさきほど、市場経済の否定面についてのべましたが、いまのべた立場で市場経済を研究してみると、それが、ほかの方式や仕組みでは間に合わせられない重要な経済的効用を持っていることが分かります。
たとえば、需要と供給の調節という作用です。
ある国の国民が、一年間にどれだけの量の靴を必要とするか。こういうことは、市場の作用がなくても、計算できます。しかし、どういうタイプの、どういう色合いの靴が何足あれば、国民の好みを満たせるかという問題は、それはコンピューターがどんなに発達しようが、計算では絶対に答えはでません。こういう分野では、市場経済の調節作用が、長期にわたって必要になるでしょう。
それから、労働の生産性、あるいは企業活動の成績、そういうものをはかったり、比較したりする問題でも、市場の判断は、なかなか貴重であります。
マルクス自身、『資本論』の中で、熟練した労働と単純な労働とを比較して、熟練労働がどれだけ多くの価値を生み出すかを問題にしたときに、それをはかるのは市場だとのべました。マルクスの言葉では、それは生産者たちの背後で働く「一つの社会的過程」で確定される、となっています。それは市場経済のこの面での作用を指摘したものです。
ソ連流の計画経済は、この面でも大失敗したのがたいへん印象的です。
五〇年代から六〇年代にかけて、フルシチョフがソ連共産党の中央委員会でおこなった報告を読むと、そのことがよく表れています。
“わが国では、生産の成果を目方ではかっている。だから、建物を飾るシャンデリアにしても、重いものをつくればつくるほど成績があがる。いったい、重いシャンデリアをつくれば、企業はもうかるだろうが、そんなものを誰が使うのか”――そんな報告があります。
それから別の機会には、“なぜソビエト製の家具は、評判が悪いのか。それは工場が、重いものばかりつくっているからだ。外国製の方が軽くて使いやすい。わが国では、機械工場の多くの製品を、目方で成績をはかる。機械の台に必要な鉄の二倍も使っている。それで、計画は達成されても、できるのは使い物にならない機械ばかりだ。工場の成績をはかる新しい基準をつくらなければならない”、これがフルシチョフの報告でした。
市場経済を廃止してから三十年たって、いまだに経済の成果をはかる基準の探究はこの程度のことだったのです。
この問題でも、私たちにはひとつの経験があります。
アメリカのベトナム侵略戦争が終わって、平和が回復したときに、ベトナムの経済事情の視察と助言のための研究代表団をベトナムに派遣しました。
農業を視察しました。ベトナムは、ご承知のように、稲の水田耕作をやっていて、田んぼがあります。
農業の機械化ということで、ソ連から田植え機が送られてきていました。ソ連流の計画経済の産物ですから、たいへん重い。田んぼにもっていくと、ズブズブズブズブと沈んでしまう(笑い)。ベトナムでは、せっかく送ってもらったものだからといって、それを浮かせるために両側にボートをつけた。稲の苗を植えることは植えるのだが、それを動かすと、両側のボートがせっかく植えた稲の苗をなぎ倒してしまう(笑い)。それで、やめにしたとのことです。
これは、労働の生産性や経済活動の成績をはかる上で、市場経済にかわる代用物を見つけるのが、いかにむずかしいかをあらわした一例です。
マルクスは、はっきりいってそこまでは考えていませんでした。『資本論』には、マルクスの言葉で「共産主義社会でも価値規定は残る」という言葉があります。ここから、市場経済の存続まで、マルクスが考えていたとおしはかるのは無理です。しかし、「価値規定」が残るとしたら、市場経済をぬきにしてどういう残り方ができるだろうかを考えなければなりません。
価値規定が残るといえるためには、生産者の背後で働いていた「社会的過程」、すなわち、市場経済にかわって、労働の「価値」をはかるなんらかの仕組みがどうしても必要になってきます。
そこには、まだ理論的に解決されていない大きな研究問題があると思います。そして、それは、世界的に実際の経験が蓄積されるなかで、時間をかけて解決されてゆく性質の問題だと思います。
もともとマルクスの社会主義論、共産主義論は、資本主義社会の全面的で科学的な批判にもとづいて、この社会がより高度な社会形態に交代することが歴史的な必然であることをあきらかにしたものですが、新しい社会そのものについては、社会進歩の大づかみな発展の方向の解明にとどめて、くわしい青写真づくりはしりぞける、ここに、マルクスの社会主義論、共産主義論の特質がありました。マルクスは、この問題は、将来、その事業にたずさわる世代が、現実にとりくみながら、さまざまな経験を積み重ねてつくりあげてゆくものだという、大局の展望をもっていました。
マルクスのこの考えは、レーニンもたいへん気に入っていて、「マルクスは将来の革命家の手をしばらなかった」という言葉で、そのことを表現しました。
私は、新しい社会をめざすという大事業には、そういう心構え――問題は自分たちの世代にまかされているのだという意気込みで、とりくむ必要があるのではないかと考えています。
最後になりますが、だいたい、「市場経済を通じて社会主義へ」ということは、マルクスも予想しなかったものだが、現実の要求から生み出されてきた道です。私はさきほど、「世界史における新しい挑戦」だとのべましたが、理論的にも新しい挑戦であります。
しかも、これは、広い意味で、世界的な普遍性がある道です。日本のように資本主義的市場経済が高度に発展している国ぐにでも、将来、同じ性質の問題に直面することは疑いありません。それらの国に社会主義をめざす政権が生まれて、その社会が社会主義への前進を開始しようというときには、それは、市場経済の中でまず社会主義部門が生まれ、そして、その合理性と優位性を市場経済のなかで点検されながら、次第に社会主義部門の比重と力量を大きくしていく。そういう経過をおそらくたどるでしょう。その進み方や形態が、その国なりの独自性、特殊性をもつことはもちろんですが、「市場経済を通じて社会主義へ」という大筋では、世界の多くの国ぐにが共通点をもつでしょう。
私たちは、あなた方の現実のとりくみとその経験を、おそらくそこには山もあれば谷もあり、成功もあれば失敗も起こりうるでしょうが、そのすべてを注意深く、日本社会の未来展望とも重ね合わせながら、今後とも研究してゆきたいと考えています。そのことを最後に申しのべて講演の結びとするものであります。ご清聴ありがとうございました。(拍手)
中国社会科学院とは 中国の社会科学研究で中心的役割を果たす学術機関。経済研究所、工業経済研究所、人口研究所、歴史研究所、文学研究所、少数民族文学研究所、哲学研究所、法学研究所、政治学研究所、社会学研究所、アメリカ研究所、日本研究所など三十余の研究所・研究センターをもち、テーマによってつくられる研究プロジェクトは五十以上にのぼります。約三千人の研究者を擁し、八十以上の研究雑誌を発行しています。