2002年9月24日(火)「しんぶん赤旗」
講演が終わったあとは、社会科学院副院長の李慎明(りしんめい)さんが主催する昼食会に招かれた。つまり、私の分類法によれば、「宴会」方式の意見交換である。会場は、社会科学院に近い国際ホテルの二階の「双魚座の間」。
ここで、いちばん盛り上がったのは、私の「文化大革命」経験談だった。
話の糸口となったのは、李慎明さんの一つの質問だった。
李 不破さんが最初に中国を訪問したのは、いつですか。
不破 一九六六年です。
李 すると、「文革」の前ですか、あとですか。
不破 「文革」の真っ最中、いや、「文革」が私たちの目の前で始まった、といった方がよいかもしれません。
李 というと、それはどういうことですか。
ここまで聞かれると、私の経験した全いきさつを話さないわけにはゆかなくなる。
一九六六年二月〜四月、ベトナム支援の国際統一戦線の問題を話し合うため、日本共産党の代表団(団長・宮本顕治書記長)の一員として、ベトナム、中国、北朝鮮の三国を歴訪した。この歴訪の経過が、実は、いまでは中国で、毛沢東らが「間違ってひき起こし、それが反革命集団に利用されて、党と国家と各民族人民に大きな災難をもたらした内乱」(第十一期六中総の「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議」、一九八一年六月)という公的な規定が与えられている「文化大革命」の発動の歴史と、不可分に重なりあい、毛沢東の国内、国際両面での無法を浮き彫りにしていたのである。
もちろん、昼食会の席では、経過の詳細な説明は不可能だから、「私たちの目の前で始まった」というさわりを中心に紹介した。なかでも、とくに同席した人たちの興味を引いたのは、次の二つの事実だったようだ。
一つは、私たちが上海に上陸してそこに滞在中の二月十三日、私たちの宿舎となった錦江飯店に彭真(ほうしん)が現れたときのことである。彼は毛沢東を訪問しての帰りで、毛と会ってきた喜びを全身で表しながら、中国がいまとっている路線について熱弁をふるった。国内政策で彼が主題としたのは、「いま自分たちは、『資本主義の道を歩む実権派』とのたたかいに全力をあげている」という問題だった。
彭真は、当時党の政治局員かつ北京市長で、この時の毛沢東訪問も文化戦線の対策の相談に行ったのだった。ところが、四カ月後の六月には、反革命の巨魁(きょかい)として糾弾され、真っ先に紅衛兵を動員しての打倒作戦の対象となった。そして、二月の毛沢東訪問そのものが、反毛沢東の陰謀の一こまとされ、その罪状にあげられた。
私は、会食の席で、この事実を紹介し、「その時、彭真は、四カ月後に自分がこの名前で呼ばれ、攻撃されるようになるとは夢にも思わなかった」と述べたが、これも、「文革」の目撃者として、私が責任を負える証言の一つだった。(つづく)