2002年9月29日(日)「しんぶん赤旗」
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八月二十七日の夜は、予定されたなかの唯一の文化的日程、京劇の鑑賞である。前回は、梨園劇場という京劇専門の小屋で観(み)たが、さわり集といった感じの演目の編集で、バラエティーはあったが、本格的に京劇を観たという印象はうすかった。今回は、長安大劇場で、もう少したちいった鑑賞ができるかとの期待がある。
夕食もそこそこに出かけて劇場に着くと、席につくとほぼ同時に開演、すれすれの到着だった。
最初は「三岔口」という芝居。「さんたこう」と読むとのこと。
実は、戦後、京劇の日本での最初の公演があったとき、歓迎かたがた発行された『京劇』(一九五六年刊、編者は河竹繁俊、千田是也、中村翫右衛門、梁夢廻)という結構分厚い本があり、わが家の書棚から抜き出して持参していた。ページを繰ると、そのシナリオの全文が出ていた。
それを読んだうえで舞台を観たのだが、シナリオでの印象とはまったく違っていた。筋立ては、宋(十〜十三世紀)の将軍が、悪臣を退治して流刑地に送られる。護送途中の宿が「三岔口」で、将軍は宿の主人によって助けられるのだが、同じ宿に泊まりこんだかげの護衛役・将軍の弟を、宿の主人が暗殺者と誤解して、死闘を演じる、というものである。
シナリオの大部分は、この筋立てにそっての登場人物それぞれのせりふで、結構長いと思ったが、実際の舞台ではその部分の進行は早く、たちまち護衛役と宿の主人との死闘に急転する。
この死闘は、シナリオでは、「宿の主人、暗闇のなかで暗殺者を殺そうとして、二人立廻(たちまわ)りとなる」と、特別に小さい活字で一行書いてあるだけ。実はそれが、時間的にも主要部分を占める、この芝居の最大の見せ場だった、というわけである。
暗闇の立廻りというのは、日本の歌舞伎にもある。「だんまり」と呼ばれ、私も何回か見ているが、その場面は真っ暗闇、鼻と鼻をつきあわせても相手の顔が見えない、という想定で、登場人物が手さぐりで相手の様子をさぐりあったり、あるいはめざす相手がそこにいるのに互いにまったく気づかずに通りすぎたりするところが、喝さいを呼んできた。
京劇でも、あかりを消す動作があると、あとは、真っ暗闇、相手の姿はまったく見えないという想定などは、歌舞伎のそれと同じである。ただそこでの演じ方はまったく違う。
歌舞伎の場合は、役者はいわば水のなかでのようにゆっくりと動くことで、暗闇での動作を表現するのが普通だが、京劇では、いわば香港アクションスターのジャッキー・チェンばり、猛スピードの激烈な立廻りである。
唯一の小道具の小さな台も存分に活用して、舞台をせましと、体をすりあわせんばかりに剣を激しくふるいあう。たまに手と手がふれあうと、それと相手の体のあるべきところに剣を振りおろすが、もう互いの体の位置は予想外のところに移っている。こんな調子の立廻りが、手を変え品を変え延々と続く。しかし、変化する型の見事さに、時間の長さを感じさせないところは、さすがである。
最後に、宿の主人の妻が将軍本人とともにあかりを持って登場、めでたしめでたしの幕となる。立廻りを演じたのは、魏学雷(ぎがくらい)、葉江翔(ようこうしょう)の二人の俳優だとあとで聞いたが、知識のない私には、これ以上の紹介をする術(すべ)はない。
実は、四年前に観たときにも、暗闇劇の一幕があった。私は日本の歌舞伎との交流が歴史的にあるのではないかと考えもしたが、どうもそうではなくて、それぞれ独自の発達をとげてきた演技のようである。
それぞれの歴史を見ても、歌舞伎の方は、初代団十郎も、作者の近松も、江戸や大阪での劇場の創設も、すべて十七世紀に記録されている。これにたいして、中国では、各地で発達した古典劇(とくに南方系の「二黄〈にこう〉」と北方系の「西皮〈せいひ〉」)が、北京で合流して「京劇」としての完成をとげたのは、十九世紀の初頭とされているから、時代的にもかなりの開きがある。
いずれにしても、同じアジアに生まれた二つの古典劇の相互の成り立ちと関連の歴史には、私のような門外漢にも、たいへん興味をひかれるものがある。