2002年10月31日(木)「しんぶん赤旗」
私は、わかりやすい最近の実例として、瀋陽事件をとりあげた。
――あの事件でも、中国には中国の考え方、立場があったはずだ。領事館の警備は、こういう立場で、こういう合意のもとにやっている、などなども、その一つだ。しかし、中国側からは、そういう説明は一度も聞かれなかった、と思う。だから、私たちは、日本政府の発表、発言をよく研究し、その矛盾をつくことを通じて、真実にせまろうとした。この問題でも、立場の違いはあるだろうが、一般の人がわかる言葉での説明があればよかった、と思う。
瀋陽事件の問題での例解でも、真剣に耳を傾ける中国側の態度は変わらなかった。
――中国の経済の発展とともに、その国際的立場は今後いよいよ大きくなるだろう。日本の財界筋も、中国が二十年後には、GDP(国内総生産)で日本を抜いて、世界第二位の経済力を持つことを予想している。
――それだけに二十一世紀には、政府間の外交と同時に、世界の諸国民、日本の国民に、中国がどんな立場で、なにを道理と考えて行動しているのか、そのことへの理解を広げる外交が、いよいよ重要になると思う。それは、「日本の国民のみなさん」といった呼びかけが必要だということではない。政府間交渉の根底にある中国側の考え方をわかりやすく説明する活動が必要だということだ。
私は、「以上の話は、あなたがたのご参考になれば、という意味でです」と述べて、発言をしめくくった。
趙啓正主任は、すぐ発言した。
――議長のお話は、哲学的にも論理的にも理解しやすいものだった。もっと早くお会いしておきたかった、と思う。これまで日本共産党との交流は少なかった。
趙さんはさらに、これまで自分が会ってきた「数多くの日本の政治家」の名前をあげながら、今日の話は「もっとも印象深いものだ」、「それは、マルクス主義の哲学的基礎がしっかりしているからではないかと思う」と続けた。私は、それらの言葉を聞いて、はじめての対面、はじめての対話ではあったが、自分の意のあるところを、趙主任に受け止めてもらった、こういう感触を強く持った。
趙さんは、「これからも、気軽に足を運んでいただくよう、お願いしたい」、「今度中国に見えたときは、テレビで中国国民に向けて話してほしい」とも語った。国民に目線をむけて「対世論外交」が大事だとあれだけ力説してきた筋道からいって、「否」と言える話ではなかった。
話のなかで、近く訪日の予定があると聞いたので、「懇談」は、席を立ちながらのこんな具合でしめくくられた。
不破「日本においでになったとき、またお会いできるといいですね」。
趙「物理の話もできますか。不破さんは、専攻は何だったのですか」。
不破「好きなのは、素粒子論でした」。
趙「いい選択ですね。次は物理の話をしましょう」。
握手して別れたが、“心残りになっていたことを、その問題にふさわしい人と、核心にふれて話し合うことができた”という気持ちが、余韻として残った。
北京飯店での最後の昼食。滞在中、なにかとお世話になった「しんぶん赤旗」の北京支局の三人――田端誠史支局長、小寺松雄記者、鎌塚由美記者――とは、三日目から、宿舎での食事はいつもいっしょにするようにしていたが、この三人ともお別れである。北京飯店一階のロビーで、それぞれ記念撮影。また、中連部の李軍さんと趙世通さん、若い林明星さん、王一迪さんとも、カメラに入ってもらった。
空港では、王家瑞副部長の見送りを受け、昨日まで四日間の全行動を収録し、「中共中央対外連絡部」と金文字で刻んだ箱入りのぶあつい立派な写真帳『日本共産党中央主席 不破哲三一行訪華』を、記念として贈られた。「議長」という私の役職に当たる言葉が中国の党にはなく、「中央主席」と訳したらしい。到着から昨日の夜まで、四日間の全日程を大判の写真三十九枚にまとめた、たいへんうれしい記念品だった。たがいに、今回の訪中で、双方が充実した成果を得たことを喜びあい、東京であるいは北京での再会を約する。
間もなく午後二時五十分、私たちの乗った飛行機は北京空港を離陸した。
『平家物語』をしめくくる私の好きな言葉に、「見るべき程の事は見つ」という平知盛(たいらのとももり)の言葉がある。眼下に次第に遠ざかる北京の街並みを見ながら、なんとなく、その言葉が頭に浮かんだ。五日間の日程ではあったが、「話し合うべきことは話した」――この感慨を胸に、私は日本に向かった。(おわり)