2007年1月24日(水)「しんぶん赤旗」
ベトナム 友好と連帯の旅
志位委員長が語る (下)
ドイモイの実践と理論について――五つの質問と回答
ベトナム共産党によるドイモイ路線の規定
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――ベトナムがすすめているドイモイ(刷新)の理論と実態について、一連の会談や視察で意見交換をされたと聞きましたが。
志位 短い滞在期間でしたが、私たちの目と耳でドイモイの理論と実践を知ることは、今回の訪問の大きな目的でした。マイン書記長、ズン首相との会談とともに、ハノイ市、ホーチミン市の両党委員長、社会科学院院長との会談でも、ドイモイは主要なテーマになりました。
さらに私たちは、ハノイ市では、ソンロン・プラスチック協同組合(集団セクター)と、情報関連企業のFPTコーポレーション(国家セクター)を訪問しました。ホーチミン市では、サイゴン・ハイテク・パーク管理委員会(国家セクター)と、クアンチュン・ソフトウェア・シティー開発会社(国家セクター)などを訪問し、現場のみなさんからもドイモイの実態をうかがいました。
私たちがとくに知りたいと思ったことは、ベトナムでは、ドイモイについて、「社会主義志向の市場経済」と規定づけていますが、それでは「社会主義志向」をベトナムは何によって保障しようとしているのか、ということでした。
先方の説明によると、ベトナムがいますすめているドイモイの方針は、およそつぎのようなものになります。
――「国家セクター、集団セクター、個人小経営セクター、私的資本主義セクター、国家資本主義セクター、外国資本セクター」と六つの経済セクターが存在し、「各経済セクターは社会主義への方向づけをもった市場経済の重要な構成部分」であり、「憲法と法律で平等と認められて」おり、「長期に健全に競争し、ともに発展することをめざす」とされています。
――国家セクターと集団セクターが、「国民経済の土台」となるべきであって、とくに国家セクターは、「国の経済を方向づけ、調節し、各経済セクターが共に発展することを促進する環境と条件をつくるための重要な物質的勢力」であって、経済における「主導的役割」を発揮すべきものだと規定づけられています。
――国家セクターのそうした「主導性」は、国家独占ではなく、市場における競争によって実現しなければならないとされています。同時に、国家セクターが、経済のいくつかの重要分野――ナム社会科学院院長の言葉では、「経済の瞰制(かんせい)高地」を握ることで「主導性を実現する」ということが強調されていました。
――「瞰制高地」ですか。この言葉はレーニンの「ネップ」(新経済政策)を思い起こしますけれども。
志位 そうですね。私がレーニンとのかかわりを聞きますと、ベトナム共産党はドイモイの事業を開始するさいに、レーニンの「ネップ」を集中的に研究したとのべていました。不破哲三議長(当時)が二〇〇二年の中国訪問のときにおこなった講演――「レーニンと市場経済」(『北京の五日間』に収録、二〇〇二年、新日本出版社)も、ベトナム語に翻訳されて、党指導部が研究したとのべていました。
「市場経済を通じて社会主義にすすむ」という考え方は、レーニンが十月革命の後、さまざまな苦しい試行錯誤を経て、一九二一年に踏みきった経済路線です。不破さんの講演では、「この道を成功させるうえで何が必要か」ということについて、レーニンが残した教訓として三つの点を整理してのべています。
第一は、社会主義部門が、市場での競争を通じて、資本主義に負けないだけの力を持つようになることであり、その立場で、内外の資本主義から学べるものは学びつくして活用するということです。
第二は、経済全体の要をなす「瞰制高地」を、社会主義の部門としてしっかりと握って、経済発展を方向づける力が発揮されるようにすることです。「瞰制高地」というのは、当時の軍事用語で、その高地を握ったら全体が見渡せて、軍事的な局面を有利にできる場所という意味ですが、レーニン独特のこの言葉を、ベトナムが使っていたことはたいへん印象深いことでした。
第三は、市場経済が生み出す否定的な諸現象――無政府性、弱肉強食、経済格差、拝金主義、腐敗現象などから社会を防衛することです。
ベトナムの党の文献では「社会主義部門」という言葉は、直接には使われていませんが、国家セクターが、市場の競争によって優位をしめ、また国の重要分野――すなわち、「瞰制高地」を握ることによって「主導性」を発揮し、国家セクターと集団セクターが「国民経済の土台」になるというのは、レーニンがすすめた「ネップ」の立場を踏まえた、実践的・理論的探求だということを感じました。
ベトナム側の説明をふまえての五つの質問
――なるほど。ドイモイの理論と実践という点では、ベトナム側に主にどんな点をお聞きになったのでしょうか。
志位 日本共産党の外交方針は、他国の内政には干渉しない、口を出さないということを大原則にしています。ただ同時に、どの会談でも中心テーマはドイモイとなり、先方はドイモイの現状を熱心に説明してくれて、質問を自由にしてくださいということでしたので、私たちが関心を持っている問題を、質問の形で相手側に提起しました。
とくにドー・ホアイ・ナム社会科学院院長との会談は三時間あまりにわたり、この問題での理論交流にあてられましたので、先方のドイモイについての説明を受けて、私はつぎの五つの点を質問しました。これらの質問は、不破議長(当時)が、中国共産党との理論交流のさいに提起した諸問題(『21世紀の世界と社会主義 日中理論会談で何を語ったか』、二〇〇六年、新日本出版社、を参照してください)も念頭におきつつ、ベトナム側の説明を聞き、ベトナムの独特の問題も考えて、提起したものでした。
第一は、六つの経済セクターのなかで、国家セクター、集団セクターの競争力はどうなっているのか、という問題です。それらが「主導性」を発揮し、「国民経済の土台」になるためには、市場の競争において負けない力を身につけることが条件になると思いますが、国際競争に打ち勝てるような企業が生まれているのかどうか。
第二は、国家セクター、集団セクターにおいて、企業単位、生産単位での労働者の地位がどうなっているかという問題です。日本共産党の綱領では、社会主義・共産主義とは何よりも「生産手段の社会化」だと規定づけています。これはくだいていえば、「生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す」ということです。「生産手段の社会化」によって生産者の地位は大きく変わります。すなわち「生産者が主役」が大原則になります。そのことを、私たちは綱領につぎのように明記しました。
「生産手段の社会化は、その所有・管理・運営が、情勢と条件に応じて多様な形態をとりうるものであり、日本社会にふさわしい独自の形態の探究が重要であるが、生産者が主役という社会主義の原則を踏みはずしてはならない」。
これは、旧ソ連社会への根本的な批判をふまえて明記したことです。すなわち、旧ソ連社会には、「国有化」という形態はありました。「集団化」という形態もありました。しかし、「生産者は主役」どころか、経済の管理・運営から排除され、抑圧され、工業では国営企業、農業ではソホーズ(国営農場)やコルホーズ(集団農場)に雇われる身だったわけです。これでは、資本主義と変わらない。社会主義とはとうていいえません。そういう批判をふまえて、「生産者が主役」という原則を私たちは新しい綱領に書き込みました。それでは、ベトナムでは「生産者が主役」という原則・目標への接近、あるいはそれにむけた模索や探求がどのようにおこなわれているのか。私が聞いた二つ目の点はここにありました。
第三は、資本主義の害悪をどうやって国民のなかに広めているのかという問題です。社会主義とは資本主義批判から生まれた思想です。しかしベトナムでは、それを国民的に体験することが難しいのではないか。たとえば、外国資本があるし民間資本もありますが、これは国の政策によって呼び入れられたり、つくられたりしているものです。そういうなかで、国民に資本主義の害悪をどう理解してもらうのか。私は、世界の資本主義の実態を研究するのも、その一つになるかもしれないということものべました。
第四は、ベトナムでは貧困問題の解決に成功しているというけれども、どういうマクロの経済運営をしているのかという問題です。これが「社会主義志向」という立場とどういう関係にあるのかということです。ベトナム側は、経済成長と貧困対策を連動させるという説明をしましたが、そのためのどういうシステムがあるのかを聞きました。一口に市場経済といっても、「新自由主義」による市場万能主義・弱肉強食主義もあれば、民主的規制のもとにおかれた市場経済もあります。ですから、どういうマクロの経済運営をしているのかというのは、たいへんに興味のあるところでした。
第五は、世界貿易機関(WTO)への加入などによって、ベトナムは資本主義的世界経済との結合にすすもうとしています。これはベトナムにとってチャンスであるとともに試練でもあると思いますが、ベトナムはどう考えているのか。レーニンも「ネップ」の時代に外資の導入をめざしましたが、その当時と比較にならないほど多国籍企業は巨大な力を持っています。どうやって、そうした巨大国際資本にのみこまれずに、逆に活用していくのか。こういう五つの質問を、私はいたしました。
どのようにして競争に勝つ力を身につけようとしているのか
――たいへん興味深い問題提起だと思いますが、ベトナムはどのように説明したのでしょうか。
志位 それぞれについて真剣な答えが返ってきました。もちろん、それぞれについて理論的模索も感じたし、未解明の問題もあるという率直な話が先方からありました。ベトナム側からの説明はつぎのようなものでした。
第一の質問――国家セクターが市場での競争で勝るという点では、国家企業の改革をすすめ、競争力をつけるようにしているという説明でした。同時に国家企業は、さきほどいったように経済の「瞰制高地」を意味する重要分野――エネルギー、金融、輸送、ハイテクなど新しい技術などに集中して、この分野は握っていくとのことでした。
国家企業の改革の重点は、株式化にあるということを強調していました。国家は、株式化によって、その企業を支配するのに必要な株を持つことになるというのです。ナム社会科学院院長は、「志位委員長は生産手段の社会化ということを提起されたが、株式化を通じた社会化をはかっています」と説明しました。
株式化をはかった場合、国家が株式の一部を持ち、残りを従業員が持つという形態もおこなわれているようでした。こういう形態で、国家企業、国家セクターの改革をはかり、テレコム通信分野やITソフトの開発などで、国家セクターのなかにも一定の国際競争力をもつ企業が生まれつつあるということでした。
――ベトナムで、いまブランドといわれるテレコム(通信)、ITソフトの企業FPTコーポレーションを視察したそうですが。
志位 ハノイにあるFPTコーポレーションというのは、情報通信企業で、ITソフト開発などで、この八年間に、従業員が十三人から六千人に成長し、あと数年たつと一万五千人まで成長する予定だという話で、まさに急成長の途上にある企業でした。
これは国家セクターに区分されています。この企業では、二〇〇二年に株式化をおこない、すべての株式は、国と従業員が保有しているという説明でした。国の保有率は、だいたい8%から9%で、最大の保有者になっており、残りの九十数%は従業員が保有しているという説明でした。
「生産者が主役」という原則
――真剣な探求と模索を感じた
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――第二の質問、国家セクター、集団セクターの企業単位、生産単位での労働者の地位、「生産者が主役」という問題については、どういう説明があったのでしょうか。
志位 「生産手段の社会化」、「生産者が主役」というのは、わが党の綱領のなかでも、未来社会論における核心的な命題ですから、とくに注目して聞きました。ナム社会科学院院長、ファム・クアン・ギ・ハノイ市党委員長、レ・タイン・ハイ・ホーチミン市党委員長との会談でも聞き、生産現場でも聞きました。それらを私なりに整理すると、先方から返ってきた答えは、だいたいつぎのようなものです。
国家セクターの場合は、その経営者は国家が任命します。同時に、労働者は二つの形態で、経営に参加するということでした。一つは、自らの代表を経営委員会に送るという形態です。もう一つは、企業全体の労働者の職場大会で、企業の経営計画が提案され、討論にふされ、労働者は意見をいう権利を持つ。それが多数の意見になれば受け入れられる。この二つの形態で労働者が経営に参加するシステムがつくられているという説明でした。
私たちが、ホーチミン市で訪ねた、クアンチュン・ソフトウェア・シティー開発会社は国家セクターですけれども、訪問して労働者の経営参加について聞きますと、四半期ごとに企業の役員会と労働者の集会を持って、経営の総括を話し合い、方針はそこで採択されて、実行に移されるということでした。
――集団セクターの場合はどうなっているという説明でしたか。
志位 集団セクターの場合は、主に協同組合という形態をとっているようですが、その経営委員会は、組合員の選挙で選出されるというシステムになっているという説明でした。出資した組合員は、出資額にかかわりなく、平等の権利をもって経営に参加するということでした。ここでの人間関係は、雇うものと雇われるもの、上級と下級の関係ではない、平等の関係だということも強調していました。
私たちは、ハノイにあるソンロンという協同組合で経営しているプラスチック工場を訪問しました。ここは中国やフィンランドにも製品を輸出するかなり大規模な企業に発展していて、従業員千人規模の企業でした。従業員のうち三分の一は協同組合の組合員で、組合員の選挙で役員が選ばれ、組合員大会で経営方針が決められるということでした。
私は、この工場を訪れ、工場の組合員のみなさんが集まった集会で、質問をもとめられたので、「みなさんは『労働者が主人公』という実感がありますか」と聞いたんですよ(笑い)。そうしましたら一人の組合員が手を挙げて立って、「私は、主人公だと思っています。なぜなら私自身がお金を出資し、毎年の経営計画を組合員大会で承認しているからです」と言いました。
それを受けて、経営委員会の主任――企業長にあたる人が、「三月には組合員大会があります。ここで私の経営計画が承認されなければ、私は普通の一組合員に戻ることになります」と言いました。こういう関係になっているとのことでした。
――選出、解任は組合員の権利ということですね。
志位 そうです。経営委員会の選出、解任でも、雇うものと雇われるものではなくて、平等の人間関係があることがうかがわれました。
もちろん「生産者が主役」というのは、簡単にいく話ではないと思います。私たちは、わずかな滞在期間による会談での説明と、ごく一部の企業を視察したにすぎません。しかしハノイでもホーチミン市でも、現場の党委員会がこの問題を重視しているということは、私たちにはっきりと伝わってきました。
――ホーチミン市は、ベトナム経済の四割が集中しているそうです。ハノイは首都で、そのつぎに大きな生産の規模ですね。その二つの都市での説明はたいへん大事だと思うのですけれども、どうだったのでしょうか。
志位 ハノイのギ党委員長は、私の「生産者が主役」という問題提起にたいして、「われわれにとって非常に重要な問題です」とのべて、国家セクター、集団セクターにおける労働者の地位について、詳しい説明をしてくれました。
私が、「私たちは、社会主義とは『生産手段の社会化』だと考えています。それは生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移すことで、『国有化』『集団化』だけでは社会化になりません」と言いましたら、ギ党委員長はすぐそれを引き取って、「私たちは、ドイモイの前は、国有化、集団化さえすれば社会主義だと思っていました。かつてはひたすらそう考えていました。しかし、いまは、それは一つの要素にすぎません」と応じました。そして、「人民が主人公」という原則を強調しました。これは、たいへんに率直で興味深いやりとりでした。
ホーチミン市ではハイ党委員長と会談しましたが、私がこの問題を提起しますと、「志位委員長が提起した問題は正しい。それは重要だが難しい問題です。実際には集団セクターは弱体です。それを育てていきたい。長期の研究活動が必要だと思います」との答えが返ってきました。現実を直視したリアリズムを感じました。
私もこれはほんとうに簡単にすすむ話ではないと思います。しかし、わが党の綱領でのべているように、現実に、企業単位、生産単位で、「生産者が主役」という人間関係がつくられ、それが基礎になってこそ、ほんとうに社会主義にむかう土台が作られていくと思います。ベトナムのみなさんと交流しながら、先方に、この問題に対する真剣な探求と模索があるということを、私は感じました。
資本主義の害悪への国民的理解をめぐって
――第三の質問、資本主義の害悪への国民的理解について、ベトナムのとりくみはいかがだったでしょうか。
志位 この問題を聞きますと、現在のベトナムでも、進出してきた外国資本の一部と、トラブルが起き始めているとの説明が、まずありました。
一つは、ひどい残業などの長時間労働。二つ目は、給料の遅配・欠配など労働条件の契約不履行。三つ目は、保険の未払いなどの形での搾取の強化。さらには、労働者を殴打するなどの暴力事件もあるそうです。これらに対して労働者のストライキも起こっているということでした。
私が、「そうした場合どうするのですか」とたずねますと、ホーチミン市のハイ党委員長は、「行政当局は労働者の合法的で正当な権利を保障する政策を実行しなければなりません」と答えました。つまり労働者の権利を保護するために行政当局が介入・関与するというのです。同時に「企業側の望む条件を考える」とも言っていました。すなわち企業側にも条件を提示し、交渉をし、納得を得るというプロセスがやられているのだと思います。この両面で努力しているということが言われました。
ハイ党委員長が、この問題でも、「私たちの考えは正しいと思いますが、実行はたいへんに難しいものがあります」と率直に語っていたのも印象的でした。
資本主義の害悪の問題では、一連の会談で、ベトナムにおけるいろいろな矛盾を直視するとともに、その根本的本質を知るには、世界の資本主義の研究が必要だと思うということが、先方からも言われました。私が、「その意味でも、いちばん悪い見本が日本にありますから、理論交流は有益だと思います」(笑い)と言いますと、ベトナム側からも「ぜひ日本の資本主義についてよく研究したい」という反応が返ってきました。
貧困対策
――国家プログラムでのとりくみが
――そういうやりとりの中でも、理論交流の意義があらためて確認されたわけですね。第四の質問、貧困対策ではどんなとりくみがなされているのでしょうか。
志位 この点については、ナム社会科学院院長がまとまって話してくれました。三つの国家プログラムにとりくんでいるとのことでした。
第一は、貧困地域に対する予算の優先配分ということです。
第二は、民間企業を貧困対策に参加させることです。これは、各地方委員会にある貧困対策指導委員会に、民間企業が貧困対策への参加プランを提出するという形で、民間企業に貧困対策への参加をもとめているとのことでした。大きな収益のある企業、所得の多い個人からの資金を活用しているという話もありました。
第三は、貧困克服のための国民的運動を起こすということです。
こういういくつかの国家的プログラムで貧困対策にとりくんでいるということを、かなり具体的に語ってくれました。
私との会談でマイン書記長が、「どんな困難があっても、国の予算は貧困対策に優先して使わなければなりません」とのべていたのは、たいへん共感した言葉でした。ここに世界からも高い評価を受けている貧困対策の要があるし、社会主義の精神が表れていると感じました。
いま日本では、貧困の新しい深刻な広がりが大問題になっていますが、GDP(国内総生産)の水準でははるかに低いベトナムで、真剣に貧困解決にむけたとりくみがおこなわれているというのは、著しい対照をなしているということを感じました。
「世界経済に統合するが、融解はしない」
――第五の質問、資本主義世界市場への結合という問題ではどうでしょうか。ちょうど、委員長が訪問中の一月十一日に、WTOへのベトナムの加盟が正式に発効するという日を迎えたわけですけれども。
志位 私は、一連の会談のなかで、「WTO参加は、ベトナムにとってチャンスとともに試練もあると思います」とのべました。どの会談相手も、「それはそのとおりです」ということを強調しました。
たいへん印象深かったのは、ナム社会科学院院長が、つぎのように答えたことです。
「世界経済にベトナムは統合していきますが、世界経済に融解するということではありません。理論的にもそうであり、原則的にもそうです。世界経済に統合することで、資本、技術、経営経験を吸収し、世界市場に出て行く。私たちの指導原則は、外部の資源を吸収することで、ベトナムの社会主義志向の経済を発展させるということです」。
世界経済に統合するが、けっして融解しない、溶けない。融解してしまったら、これは資本主義になってしまいますから(笑い)、けっして溶けることはしない。逆に活用して、社会主義志向を発展させるという答えが返ってきました。これはなかなかたいへんなことで、困難や試練もともなうことだと思いますが、そういう姿勢でとりくんでいるということは、とても心強いことでした。
社会主義をめざす真剣で真摯な探求と努力を感じた
――全体をふりかえって、ベトナムにおけるドイモイについて、総括的にどんな感想を持ちましたか。
志位 三つの点を感じました。
第一は、実践しながら理論化し、さらに実践で試していくという、理論と実践の統一的な探求ということを感じました。理論化するさいに、あらゆるものを研究しようとする姿勢も感じました。ベトナムでは去年の第十回党大会に向けて、ドイモイの二十年の総括の大規模な作業をやったと聞きました。そのさい、日本共産党の新しい綱領もよく研究したとのことでした。そしてわが党の綱領が、「ドイモイを深く理解するのにたいへんに役にたった」という話も聞きました。これはうれしい話です。
第二は、ベトナムが、この事業をすすめるさいに、実験を重ねながら慎重におこなっているということです。全国一律に押しつけるのではなくて、地域ごとの条件に即した多様性を持ったやり方もたいへん重視してやっているという説明でした。
第三は、民主主義の発展のベトナム流の努力も感じ取ることができました。国会がたいへん活性化して、各大臣が国会で朝から晩まで議員の質問攻めにあうこともたびたびだと聞きました。それから、ホーチミン市でもハノイ市でも、党委員会の幹部がテレビに生出演して、市民から寄せられる数百本の意見や苦情の電話に直接答える番組があるということでした。毎週一回、二時間にわたって出て、直接対話をやるという番組です。
――ズン首相が、インターネットの生の番組に出演することになったということを、「しんぶん赤旗」が報道しました。
志位 これはぶっつけ本番なんですね。どこかの国の「やらせ」とは違う(笑い)。私は、ここにも、ベトナム流の民主主義の発展のプロセスがあるというように感じました。
ドイモイの前途には、もちろん困難や試練もたくさんあると思いますけれども、ベトナムで言われている「社会主義志向」は言葉だけではない、真剣で真摯(しんし)な探求と努力がはかられていると感じました。
私は、このだれも歩き通したことのない道を、ベトナムが歩き通して、この事業を成功させることを心から期待しています。フランスとアメリカという二つの帝国主義に勝利したベトナム人民ならば、それは可能ではないかという希望をもって、この歴史的探求が成功することを、心から願わずにはいられません。
ハノイ大学での講演と質疑――輝く瞳にベトナムの未来
世界の構造変化と、ベトナム人民の勝利の歴史的意義
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――ハノイ大学での委員長の講演と参加した学生との質疑応答はたいへん楽しい時間だったと聞きましたけれども。
志位 色とりどりのアオザイをまとった女子学生のみなさんが歓迎してくれました。三百人を超える学生のみなさんが集まって私の話を聞いてくれました。私が、にわか覚えのベトナム語で、「シン・チャオ・カック・バン」「トイ・ラ・シイカズオ・クオ・ダン・コンサン・ニャッバン」(こんにちは、みなさん、私は日本共産党の志位和夫です)というと、まず大きな拍手をおくってくれました。
私が、若いころ、「自由ベトナム行進曲」をよく歌ったものですと話し、不覚にも「いまでも歌詞は暗唱しています」と話してしまったため(笑い)、学生のみなさんから「歌ってください」という要望が出まして(笑い)、冒頭の一節を歌いましたら、盛大な拍手と手拍子が起こりました。
――講演ではどういう話をされたのですか。
志位 ベトナム共産党指導部のみなさんとの会談では、日本共産党の新しい綱領の世界論をまとまって話す機会はなかったので、ちょうどいい機会だと考えて、「二十一世紀の世界の前途をどうみるか」というテーマで話しました。二十世紀の世界の構造変化、二十一世紀の世界の四つのグループ分け、新しい綱領での帝国主義論の発展、二十一世紀の平和秩序の問題などです。私たちが新しい綱領や大会決定で解明している問題ですが、二十世紀の世界の構造変化や二十一世紀の世界にベトナムがどうかかわっているかというかみ合いを考えながら話しました。
ベトナム人民の勝利は、世界史の進歩に大きな貢献をしています。とりわけ新旧の植民地支配を打ち破ったことは、偉大な歴史的勝利でした。古い植民地支配という点では、フランスの植民地支配を打ち破った。それから新しい植民地支配という点では、南ベトナムにかいらい政権をつくり、北ベトナムを侵略したアメリカ帝国主義の支配を打ち破った。地球的規模で、植民地支配を過去のものにしたという点では、ベトナム人民の勝利が、人類史に大きな貢献をしていることは、論をまちません。
同時に、ベトナムは社会主義をめざす国の一つです。そういう点では、世界の構造変化の両方にかかわっているわけです。日本の平和・民主勢力が、世界史を動かしたベトナム人民のたたかいと勝利に、大きな敬意を持っているということも話しました。
歴史への誇りと、未来への希望と
――学生たちの反応というのはどうだったんでしょうか。
志位 たいへんに真剣なまなざしで、一言ひとことに、耳を傾けてくれ、節々で拍手がわき起こりました。明るい笑いもたくさん出ました。学生のみなさんからの感想のなかでは、「父や母の世代のたたかいにあらためて誇りを持った」という感想もありましたし、「社会主義がどういうものかよくわかった」という感想もありました。
ベトナムの若いみなさんが、二つの帝国主義を打ち破ったベトナム人民の歴史に誇りを持っているということは、私たちにとっても非常にうれしいことでした。「自由ベトナム行進曲」は、いまでもよく歌われていて、若い人でも知らない人はいないとのことでした。みんな抗米救国戦争に勝利した歴史に誇りを持っている。同時に、未来への輝かしい希望を胸に抱いていることも感じました。さきほど紹介したギャラップ社の調査の結果は、学生のみなさんも、みんな知っているんですよ。私が「第一位はどこだか知っていますか」と聞いたら、学生のみなさんからいっせいに「べトナム!」という唱和がおこりました。ドイモイの事業への強い支持は、こうした反応からもうかがわれました。日本人民の連帯の歴史を温かく評価してくれていたことも感じました。ベトナムの未来は洋々と開けているということを強く感じた交流でした。
両党の最初の出会いと、語学の交換留学生のこと
――学生は外国語を勉強している学生が中心だったそうですね。
志位 日本語も学んでいる学生が多かったですね。参加した学生のだいたい七割は女子学生でした。そこで私は、日本共産党とベトナム労働党の最初の本格的会談であった一九六六年の会談の話を伝えたのです。そのときに両党には、ベトナム語と日本語を直接通訳できる人が一人もいなかった。中国語を介しての二重通訳だったので、非常に時間がかかった。そこでホー・チ・ミン主席が提案し、日本側も同意して、語学の交換留学生を互いに派遣することになったということです。「みなさんのなかには、いま日本語を勉強している方がたくさんいるけれど、その出発点はここにあるんです。当時の留学生は、日本とベトナムの双方でいま活躍しています」という話をしましたら、たいへん温かい拍手が返ってきました。
抗米救国戦争――歴史の中にいまのベトナムを見た
戦争の傷跡
――北爆跡、ツズー病院 を訪問して
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――抗米救国戦争に勝利したベトナムがドイモイにとりくんでいることについてどんな感想を持ちましたか。
志位 ベトナムを訪問して、アメリカによる侵略戦争の傷跡はいまでも生々しいということについて、いくつか胸に残る出来事がありました。
ハノイに到着して、最初に私たちは、北爆の跡のカムティエン通りの追悼記念碑を訪問し、米国の爆撃の犠牲者となった方への追悼の献花と焼香をしました。一九七二年の十二月二十六日夜のB52米戦略爆撃機によるじゅうたん爆撃で、このカムティエンの街の住民の五百七十七人が死傷したということでした。亡くなった子どもを抱くお母さんの像があります。それを囲む形で爆撃で破壊された塀が残っているんです。真っ黒に焼けただれた部分もあって、北爆の激しさをいまに伝えていました。私たちが訪問しますと、近くのみなさんがたいへんに喜んで歓迎して出迎えてくれました。そのことからも、私たちは、戦争の傷跡の深さを感じました。
ホーチミン市で、ツズー病院を訪問したときの胸につきささる思いは生涯忘れないでしょう。この訪問のさいに、ドクさんに会い、最近結婚をされたことにたいして、祝福のあいさつをしました。ドクさんは、病院の玄関まで私たちのことを出迎えてくれ、私たちに花束をくださいました。私たちは、結婚を祝福し、ささやかな記念の品をプレゼントいたしました。
このツズー病院は、病院内に枯れ葉剤の被害児の治療・訓練施設である「平和村」がつくられていて、そこも訪れました。ここに行きますと、枯れ葉剤の影響でいろいろな障害を持って生まれた子どもたちが、元気に駆け寄ってくるんです。「抱っこして」というので抱き上げますと、私の頬にかわいいキスをしてくれた子どももいました。
ドクさんのお兄さんのベトさんを見舞いましたが、寝たきりの状態で、体は元気だということでしたけれども、たいへんに胸が痛む状態でした。聞きますと、この病院では今でも年に百人に一人は出産の異常が続いているということでした。
たいへん衝撃的だったのは、ホルマリンに入っている胎児の部屋に入った時のことです。枯れ葉剤によるさまざまな異常によって、生きることさえできずに亡くなった胎児が、たくさん眠っています。結合した胎児、目のない胎児、ぶどう状で生まれた胎児。その一人一人の姿が、枯れ葉剤、ダイオキシンという大量殺戮(さつりく)兵器を静かに告発していました。私たちにとっても、たいへん胸が痛くなる場所でした。私は、米軍がおこなった残虐非道なふるまいに強い怒りをおぼえました。
クチ・トンネル
――「みなさんも同じようにたたかっていたはずです」
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――クチ・トンネルにも行かれたそうですね。
志位 これは、抗米戦争で南ベトナム解放民族戦線が築いた巨大な地下トンネル網の跡です。サイゴン(現ホーチミン市)から約七十五キロ北西にあるものです。解放戦線が、米軍へのゲリラ攻撃を展開した軍事拠点となった場所だということでした。行ってみると、いまは緑豊かな土地になっています。かつても、同じようにクチは緑豊かな土地でした。米軍は枯れ葉剤を大量に散布して、クチを死の地にしようとしました。しかし「クチは死ななかった。生きつづけた」という説明がされました。
枯れ葉剤で緑は破壊されたが、クチの人々は地下に潜ったのです。粗末な十センチそこそこのシャベルで、手作業によって、全長二百五十キロもの地下トンネルの網をつくって、そこで縦横無尽のたたかいをくりひろげ、米軍側に甚大な被害を与えたということでした。
戦闘に参加したフイン・バン・チアさんという方が、いま遺跡区管理委員会の顧問をされていて、私たちの案内をしてくれました。トンネルにも入りましたけれども、ここには司令部、会議室、寝室、休憩所、台所、食堂、医療所など何でもあります。
私が、「補給はどうしていたのですか」と聞きますと、水は、地下トンネルのさらに地下を掘ってくみ上げて飲んだ。食料は、自給と地域住民の援助によってまかなったといっていました。いちばん驚いたのは武器です。武器は、いわゆる「ホーチミン・ルート」が補給路になっていたわけですが、クチは「ホーチミン・ルート」からもずっと離れているので、そこからは来ない。そこで、米軍の武器を奪い、不発弾を改造して武器を作ったと言っていました。チアさんは、「米軍が来れば来るほど強くなる」、「米軍が来ないとつまらなかった」(笑い)とも言っていました。
出入り口が発見されるのが一番危険なので、地雷が仕掛けられていて米兵が開けると地雷が爆発する。同時に、それでトンネルが埋まってしまって入れなくなるという仕掛けがあった。数々の種類の落とし穴がまわりに張り巡らされていて、そこに米兵が落ちると下から突き立っている鉄の棒などで米兵が大けがしたり死んだりして進めなくなる。ありとあらゆる知恵と力をつくし、頑強なたたかいをやった。クチは、「鋼鉄の土地、銅の城壁」と呼ばれるようになったそうです。私も、現場を見、説明を聞いて、アメリカのどんな戦力でも征服できないという感じを抱きました。
しかしクチでは、一万八千人のベトナム解放戦線の兵士のうち一万二千人が亡くなったといいます。生き残った六千人のうちの半分が負傷したとのことでした。チアさんも、右手を失いました。そういう甚大な被害を受けたけれども、たたかいに勝利した。この話には深く心が揺さぶられる思いで、感動で胸がいっぱいになりました。
私は、チアさんに、「みなさんのたたかいの勇気と英知に深い感動を覚えました。忍耐強さ、緻密(ちみつ)さ、しなやかな強さを感じました。この歴史はいまのドイモイにも生かされていると思います」と言いました。チアさんは、「素晴らしい言葉をありがとうございます。しかしもし同志たちが同じ状況にいたなら、私たちと同じようにたたかっていたはずです」と応じました。この言葉にも胸を打たれました。私は、「いまの言葉は、私たちへの最大の賛辞だと、感銘をもって受けとめました。感謝します」とのべました。
私は、クチのたたかいにしめされた忍耐強さ、緻密さ、しなやかな強さは、いまのドイモイにも生きていると感じました。マイン書記長が「実践を総括しながら新しい道を探求する。抗米救国闘争と同じようにドイモイを推進するということです。あの時もアメリカに打ち勝つにはいろいろな問題があったが、最後には打ち勝った。ドイモイについても、よく検討して頑張れば到達できる。そういう教訓を引き出しました」と会談でのべていましたけども、その言葉が思い出されました。二つの帝国主義の侵略に打ち勝った偉大な歴史が、今日の国づくりにも生きていると感じました。
訪問をふりかえって――躍動するベトナム、日本共産党の値打ちの再発見
――ベトナム訪問全体を振りかえっての感想はいかがですか。
志位 最初にのべたように、いまベトナムは、躍動的な発展の中にあります。そのベトナムと出会った感動とともに、日本共産党の値打ちを再発見した旅でもあったということを最後にのべておきたいと思います。
一つは、四十一年間の両党の連帯の歴史の重みです。ベトナム側との会談では、だれと話しても、かつての抗米救国戦争への支持と連帯への感謝から先方の言葉がはじまります。ホーチミン市の戦争証跡博物館には、各国のベトナム人民支援の写真や資料を展示したコーナーがありますが、日本共産党の赤旗写真ニュースや民主団体のポスターがズラリと展示してありました。これには訪問団一同、大喜びでした。案内してくれた女性は「日本国民の支援活動の息吹が伝わる展示です」と説明をしましたけれども、ポスターを見て、記憶が鮮明によみがえり、涙を流した訪問団のメンバーもいました。
この展示については、実は、一九九九年に不破委員長(当時)を団長とする訪問団が、この博物館を訪れたさいに、日本関係の展示物がたいへん少なく、博物館側から「資料を提供してほしい」との要請があったそうです。それにこたえて日本共産党が提供したものでしたが、今回行ってみますと、“日本コーナー”がつくられ展示されていたのは感激でした。
昨年の韓国の訪問では、日本共産党の戦前のたたかいに誇りを感じましたけれども、ベトナム訪問では、私たち自身も多少なりともかかわった侵略戦争反対の連帯のたたかいに誇りを感じました。党の歴史の素晴らしさをベトナムでも再発見しました。
二つ目は、綱領の力です。新しい綱領が、未来社会論で、「生産手段の社会化」を社会主義的変革の中心にすえたこと、そのなかでとくに「生産者が主役」という原則を明記したことの意味が、ベトナムのドイモイで苦労している問題意識とかみ合ったように思います。また綱領の世界論は、ハノイ大学の講演でベトナムの若いみなさんに世界の問題を語るうえでもよくわかる話になるという感じがしました。
三つ目に、日本共産党がすすめてきた野党外交が、ベトナムがいますすめている外交の発展と響きあうことを感じました。両国の政府間が良好な場合に、日本共産党の野党外交がどういう役割を果たすかというのは新しい問題です。私は、ズン首相に、「両国関係をより豊かにする」と言いました。実は、この言葉は、昨年九月にパキスタン訪問で、アジズ首相と私が会談したさいに、アジズ首相が、「日本共産党のパキスタン訪問は、両国関係をより豊かにしてくれる」とのべたことがヒントになりました。私は、韓国、パキスタン、ベトナムと、回を重ねるごとに野党外交が新しく発展していくことを実感しています。日本共産党の綱領と歴史、野党外交の方針は、世界中で友人を広げる力を持っている、この道は無限に発展するということを確信するものです。
「日本での前進と勝利を期待しています」
――そうすると、日本でのたたかいがいよいよ重要ですね。
志位 はい。私は、ハノイ大学での講演の結びにこう言いました。
「日本でのたたかいは、反動・反共勢力との激しいたたかいのなかで前途を開かねばならない、高度に発達した資本主義国独特の、また日本固有の難しさがあります。しかし、私たちは草の根で国民と結びついているという点では、日本の政党の中で最も強力な党です。この力を強め、日本でも民主主義革命を勝利させ、やがては社会主義・共産主義への道を開くために力をつくしたいと思います」。
私たちは、ベトナムという、かつては抗米救国戦争で、いまはドイモイで、独立・自主の国づくりにとりくむ国を訪れ、たくさんの友人を得ました。「日本での前進と勝利を期待しています」。多くのベトナムの友人から言われました。直面する二つの全国的政治戦に勝利し、新しい党の上げ潮をつくり出そう。訪問をふり返って、私たちは、この決意を新たにしています。
――どうも長時間にわたりありがとうございました。(おわり)