2007年2月15日(木)「しんぶん赤旗」
軍機保護法、犠牲となった北大生とは?
〈問い〉 戦前の軍機保護法とはどんな法律ですか? 同法で逮捕されたという北大生がいたということですが?(札幌市・一読者)
〈答え〉 軍機保護法は、日清戦争直後の1899年(明治32年)制定されます。侵略戦争遂行の国内体制固めとして、治安維持法とならぶ多くの弾圧法規の主な一つで、中国への全面戦争開始直後の1937年(昭和12年)に改定されました。翌38年には国家総動員法、39年に軍用資源秘密保護法、41年には国防保安法が制定されるなど、軍事秘密保護が徹底され、隣近所同士が監視しあう仕組みもつくられていきました。
軍機保護法は、「軍事上の秘密を探知し又は収集したる者は6月以上10年以下の懲役」(第2条1項)、「…外国もしくは外国のために行動する者に漏えいしたるときは死刑又は無期もしくは4年以上の懲役」(第3条2項)などを定めていました。
同法は、軍人だけでなく一般国民も対象とし、言論や出版はもとより、写生や撮影なども規制しました。検挙された人の大半は、撮影禁止区域で趣味の写真をとったり、軍艦の長さや煙突の本数などを工員同士が雑談でしゃべったりしただけなどのたあいのないものでした。
太平洋戦争開戦日の41年12月8日朝、検挙された北海道帝国大学工学部の学生、宮沢弘幸もその犠牲となった一人です。
宮沢は、北大予科の英語講師で米国人クエーカー教徒だったハロルド・レーン、ポーリン・レーン夫妻に旅行先の見聞を語ったことを軍機保護法違反とされ、懲役15年の刑を受け、網走刑務所に送られました。終戦で釈放されますが、衰弱のため肺結核となり47年、27歳で亡くなります。(ハロルドは懲役15年、ポーリンは同12年の刑。これは戦前の「スパイ」事件としてはゾルゲ事件に次ぐ重い処罰でした。夫妻は43年9月最後の交換船で帰国。在留邦人の交換要員とされたとみられています)
たんに、山登りや旅行好きで外国語を学ぶ意欲に燃え、思想的にはまだ未分化だった学生とスパイとはまったく関係のない通常の交友関係を一大スパイ事件にデッチ上げられるために宮沢とレーン夫妻に加えられたはげしい拷問…。宮沢の足跡をたどり『ある北大生の受難―国家秘密法の爪痕』(朝日新聞社)に著した弁護士の上田誠吉氏は、事件がいかに虚構にみちたものかを考察し国家権力の非道を告発するとともに「国家秘密法案を葬り去るために死者と生者が力を合わせる」ことをよびかけています。軍機保護法復活につながるGSOMIA〈ジーソミア=日米軍事情報保護一般協定)を許さないたたかいが求められます。(喜)
〔2007・2・15(木)〕