2007年2月17日(土)「しんぶん赤旗」
小林多喜二を虐殺した特高は罪に問われなかったの?
〈問い〉 小林多喜二を虐殺した特高は罪に問われなかったのですか?(岡山・一読者)
〈答え〉 1933年(昭和8年)2月20日、岩田義道が虐殺されてから3カ月後、プロレタリア文学の作家、小林多喜二は、詩人の今村恒夫とともに東京・赤坂福吉町の街頭で検挙され、わずか7時間後に築地署で虐殺されました。
虐殺については、築地署の留置場にいて目撃した人や、遺体を見た人たちの多くの証言があり、作家・手塚英孝が『小林多喜二』に詳細に記録しています。拷問の凄惨(せいさん)さは、安田徳太郎医学博士とともに遺体を検査した作家・江口渙が「作家小林多喜二の死」にリアルに描写しています。
「…首には一まき、ぐるりと深い細引の痕がある。よほどの力で締められたらしく、くっきり深い溝になっている。そこにも、無残な皮下出血が赤黒く細い線を引いている。左右の手首にもやはり縄の跡が円くくいこんで血がにじんでいる。だが、こんなものは、からだの他の部分とくらべるとたいしたものではなかった。さらに、帯をとき、着物をひろげ、ズボンの下をぬがせたとき、小林の最大最悪の死因を発見した私たちは、思わず『わっ』と声をだして、いっせいに顔をそむけた…」
小説「蟹工船」や「一九二八年三月十五日」の作者であり、都新聞(東京新間の前身)の連載小説「新女性気質」の作者としても有名だった小林多喜二の死は、翌21日の臨時ニュースで放送され、各新聞も夕刊で報道しました。しかし、その記事は「決して拷問したことはない。あまり丈夫でない身体で必死に逃げまわるうち、心臓に急変をきたしたもの」(毛利基警視庁特高課長談)など、特高の発表をうのみにしただけでした。そればかりか、特高は、東大・慶応、慈恵医大に圧力をかけ、遺体解剖を拒絶させ、真相が広がるのを恐れて葬儀に来た人を次々に検束しました。
時事新報記者・笹本寅が、検事局へ電話をかけて、「検事局は、たんなる病死か、それとも怪死か」と問い合わせると、「検事局は、あくまでも心臓マヒによる病死と認める。これ以上、文句をいうなら、共産党を支持するものと認めて、即時、刑務所へぶちこむぞ」と、検事の一人が大喝して電話を切ったという事実も書き残されています。
戦前でも、拷問は禁止されており、虐殺に関与した特高警察官は殺人罪により「死刑又は無期懲役」で罰せられて当然でした。しかし、警察も検察も報道もグルになってこれを隠し、逆に、天皇は、虐殺の主犯格である安倍警視庁特高部長、配下で直接の下手人である毛利特高課長、中川、山県両警部らに叙勲を与え、新聞は「赤禍撲滅の勇士へ叙勲・賜杯の御沙汰」と報じたのです。1976年1月30日に不破書記局長(当時)が国会で追及しましたが、拷問の事実を認めず、「答弁いたしたくない」(稲葉法相)と答弁しており、これはいまの政府に引き継がれています。(喜)
〔2007・2・17(土)〕