2007年3月2日(金)「しんぶん赤旗」
?けいざい?
8時間労働制
いつ、なぜ法制化されたの?
何時間働いてもあらかじめ決められた賃金しか払わないホワイトカラー・エグゼンプションは一日八時間・週四十時間労働制を形骸(けいがい)化させます。八時間労働制はいつ、どういう理由で法制化されたのでしょうか。(山田俊英)
日本で八時間労働制を法制化したのは第二次世界大戦後、一九四七年に制定された労働基準法が初めてです。労基法第一条は「労働条件は人たるに値する生活を営むための必要を充(み)たすべきものでなければならない」とし、一日八時間、週四十八時間(現在は週四十時間)労働制を定めました。
戦前、女性、年少者の労働や坑内労働などに十時間程度の時間規制がありました。労働者全体を対象にした八時間制はなく、長時間労働が横行していました。
「戦前わが国の労働条件が他の文明国に劣っていた」(四七年三月六日の衆院本会議、河合良成厚生相)ことを反省し、国際的に認められている労働条件を保障するというのが労基法制定にあたっての政府の説明でした。
平和のために
八時間労働制を国際的な基準として取り決めたのは、一九年に結ばれたベルサイユ条約、第一次世界大戦の講和条約です。なぜ講和条約に八時間労働制が盛り込まれたのでしょうか。
同条約は「労働編」を設け、「世界平和は社会正義を基礎としてのみ確立することができる」と明言しました。そして、貧困が社会不安を引き起こし、世界平和を危うくすることのないよう、労働条件を改善するための国際機関として国際労働機関(ILO)の設立を決めました。労働時間については、「一日八時間または一週四十八時間の原則」の実行を世界各国に求めました。
同年創設されたILOは1号条約を採択し、「一日八時間かつ週四十八時間」を労働時間の上限と定めました。
最初は欧米で
長時間労働の規制を求める運動は資本主義が最初に発達した欧米で広がりました。労働時間規制の始まりといわれるのが一八〇二年、英国で制定された「徒弟の健康および風紀に関する条例」です。九歳以下の児童労働を禁止し、徒弟の一日の労働時間を十二時間までに制限しました。
一八六八年、米国で連邦政府の官営事業所に八時間労働法制が導入されました。いくつかの州でも八時間労働法が公布されました。マルクスが指導した国際労働者協会はこれを高く評価し、同年、大会で八時間労働制の要求を決議。これが労働運動の共通の要求となり、ベルサイユ条約に結実します。
八時間労働制の国際基準はILO1号条約以降も発展させられています。ILOでは一九三〇年に事務労働者の労働時間を一日八時間、週四十八時間以下に制限する30号条約、三六年には公共事業での労働時間を週四十時間以下に制限する51号条約が採択されました。
流れにも逆行
欧州連合(EU)では指令(加盟国を拘束するEUの法律)による独自の基準づくりが進んでいます。九三年に制定され二〇〇〇年に改正された労働時間指令は週労働時間の上限を「時間外労働を含め四十八時間」と定めています。一日の勤務から次の勤務まで「最低連続十一時間の休息期間」を設けることも義務づけました。週単位だけでなく一日の労働時間を規制することで長時間労働を防止します。
一方、日本政府は労基法で八時間労働制を国際基準として取り入れましたが、1号条約をはじめ八時間労働制を定めたILO条約をいまに至るまで批准していません。日本共産党は国会で繰り返し批准を求めていますが、政府は拒否し続けています。ILOの規定は日本の労基法にあわないという理由です。
1号条約は労働時間の上限を定めたものですが、労基法では労使が協定を結べば、上限なしに残業させることができます。これを規制されることをきらう財界の意向が働いています。
この上さらに、ホワイトカラー・エグゼンプション制度が導入されれば、労基法の不十分な八時間労働制すら、掘り崩すことになります。長時間労働時間を防止する世界の流れにも逆行しています。
8時間労働制のおもな歴史
1802年 英国で「徒弟の健康および風紀に関する条例」制定
47年 英国で工場法制定(繊維工場の年少者・女性労働者の10時間制)
68年 米国で連邦政府の官営事業所に8時間労働制導入/国際労働者協会が大会で8時間労働制の要求を決議
1908年 英国の炭鉱業で8時間労働制導入
11年 日本で工場法制定(15歳未満と女性の12時間労働制)
19年 ベルサイユ条約締結、ILO創設、1号条約(工業における1日8時間・週48時間制)を採択
30年 ILO30号条約(商業・事務所の1日8時間・週48時間制)
35年 ILO47号条約(週40時間に短縮することに関する条約)
47年 日本で労働基準法制定(1日8時間・週48時間制)
87年 日本の労基法改定(週40時間制)