2007年4月4日(水)「しんぶん赤旗」
ハンセン病問題 日本共産党の過去・現在の対応は?
〈問い〉 ハンセン病に関する本を読み、激しい衝撃を受け、長い間、無関心でいたことを反省させられました。共産党は、どんな主張、活動をしてきたのでしょうか。(宮城県・一読者)
〈答え〉 2004年1月に開かれた日本共産党第23回大会で、ハンセン病国賠訴訟の原告としてたたかってきた谺雄二さん(75)が「党はわが家です」と発言したように日本共産党は、元患者のみなさんと一体となって、国による差別・人権侵害を告発し、人間の尊厳を取り戻すためにたたかってきました。
その歴史は戦前にさかのぼります。療養所に隔離されたハンセン病患者が1932年、日本プロレタリア癩(らい)者同盟の設立を準備します。弾圧によって設立はなりませんでしたが、「癩者に対する不合理な差別撤廃、待遇の改善並びに解放のために戦う」ことを目的に掲げていました。
患者同士のやりとりの記録に「行動綱領をうけとった。我等の叫ばんとする所全部のっていた」「小林多喜二の工場細胞…戦旗を送ります」などとあります。患者運動に日本共産党の存在と主張が大きな影響を与えていました。
戦後の人権回復闘争の契機は、群馬県草津町の栗生楽泉園でおきた患者のたたかいでした。冬には氷点下17度にもなる楽泉園には、患者運動を抑えるために重監房がつくられていました。「冬場に使うゴム長くらい、水のもらないものを」と要求しただけで、重監房送りにされました。93人が投獄され、14人の獄死を含め52人の命が奪われました。日本のアウシュビッツといわれるゆえんです。
47年8月、参院補欠選の遊説に後の衆院議員・伊藤憲一ら党員たちが楽泉園を訪れます。重監房の存在や患者作業などの問題を知り患者代表と懇談。患者たちは重監房の撤廃、最低生活保障などを求めて立ちあがります。党は国会でも追及。重監房は廃止されます。
ハンセン病患者の朗報は治療薬プロミンの開発でした。不治の病がプロミンの投与によって治るようになりました。「全患者にプロミンを」と患者はハンストをして訴えます。ところが政府は、それに見合う予算(49年度)を組みません。伊藤、土橋一吉ら国会議員は患者と当時の池田勇人大蔵大臣に要求、予算復活を約束させました。
癩予防法廃止闘争を支援し、患者作業中止など戦後、党は国会で60回以上、質問しています。
96年、らい予防法が廃止されたにもかかわらず、元患者のおかれている実態は、変わりませんでした。瀬古由起子衆院議員は全国の療養所を訪ね、国の責任を問うたたかいを呼びかけます。弁護団の尽力とともに、この呼びかけが、国賠訴訟につながっていきました。多くの共産党員が原告団に加わります。
このように元患者のみなさんと共産党は一体になってたたかってきました。いまも国会では吉川春子参院議員を責任者にプロジェクトチームをつくり、全国13の療養所の将来構想をはじめ、元患者のみなさんが「生きていてよかった」といえるよう力を尽くしています。(四)
〔2007・4・4(水)〕