2007年5月5日(土)「しんぶん赤旗」
コルチャック先生とは?
〈問い〉 コルチャック先生と、彼が孤児たちと運命を共にした強制収容所のことを教えてください。(福岡・一読者)
〈答え〉 ヤヌシュ・コルチャックはペンネームで、本名はヘンルィック・ゴールドシュミットといいます。もともとは医師ですが、戦争や貧困の犠牲となる子どもたちを救うために孤児院をつくり、生涯をささげた人です。第2次世界大戦の末期、ナチスドイツの支配下にあったポーランドで、ユダヤ孤児2百余人とともにトレブリンカ収容所で殺されました。
ナチスが、ヨーロッパのユダヤ人1100万人の絶滅を決定したのは1942年1月10日、アイヒマンら13人の幹部が出席したベルリン郊外のワンゼー会議においてでした。ワルシャワの北東約90キロにある村・トレブリンカにナチスが六つ作った絶滅収容所のうちの一つが建設されたのはその数カ月後。ここだけで70万人を下回らない人びとが殺されたといわれます。
ワルシャワではすでに40年11月、有刺鉄線で囲んだ「ゲットー」(ユダヤ人居住区)がつくられていました。4平方キロメートルの狭いゲットーに40万人以上が閉じ込められ、食糧の配給が減らされ飢死者が続出するなか、コルチャックは食糧獲得に走り回り、孤児たちを励ましました。
42年7月22日、ナチスはゲットーから毎日6000人の「東部地域再移住」を命令。孤児院の子どもは除外をとの願いも聞き入れられず、次々にトレブリンカに送られました。
コルチャックが孤児たちと家畜用貨車に乗せられるとき、「あなたは残っていていいのです」と告げられました。しかし、「私は子どもたちの父親なのです。子どもたちをどうして…」といって、助命を拒否したといわれています。
コルチャックは、ロシア領ポーランドのユダヤ人弁護士の家に生まれ、ワルシャワ大学医学部に学び、日露戦争や第1次世界大戦に軍医として従軍。戦争の悲劇を目撃し、また戦争のため親を失い貧民街で浮浪する子どもたちに心を痛め、33歳のときにユダヤ人孤児のための「孤児たちの家(ドム・シュロット)」を、41歳のときにはポーランド人孤児のための「僕たちの家(ナシュ・ドム)」を設立。童話、戯曲をつくり、子ども向けの新聞を発行し、子どもの福祉と権利を訴えました。エッセイ「子どもの権利の尊重」(1929年)では、子どもの未来だけではなく、「今という時間を、まさに今日という日を尊重されよ」と提言。ホームでは、子どもの自治を大切にしました。
ユネスコは、生誕100年にあたる1978〜79年をコルチャック年と決め、ポーランドはこの年を期して「子どもの権利条約」の制定を世界によびかけ、89年、国連は「子どもの権利条約」を採択します。(喜)
〔2007・5・5(土)〕