2007年6月2日(土)「しんぶん赤旗」
17歳でナチスに銃殺されたギー・モケとは?
〈問い〉 フランスのサルコジ新大統領が就任式でレジスタンス闘士の碑をおとずれ、17歳でナチスに銃殺されたギー・モケの「最後の手紙」に涙し、これを「学年初めに全国の高校生に読み聞かせることを指示した」という記事(国際面23日付)をみて、日本との違いに驚きました。ギー・モケとはどんな人だったのですか?(北海道・一読者)
〈答え〉 ナチス・ドイツは1940年6月、フランスを占領しました。この占領に抵抗する運動(レジスタンス)の先頭に立ったのが仏共産党でした。ドイツ軍は41年10月に将校暗殺の報復として、仏かいらい政権(ビシー政権)に50人をさしだすよう要求。同政権は仏共産党員を処刑者に選びました。これらの50人は同月22日、銃殺されました。その中で最年少、17歳の青年だったのがギー・モケです。彼はシャトーブリアン(西部ロワールアトランティック県)の収容所から選ばれた27人の一人でした。
ギー・モケの父は仏共産党の国会議員で、その影響を受けてパリのリセ(高等中学校)の生徒だったときに仏共産主義青年同盟に入りました。パリが占領されると、これに反対するたたかいに参加。40年10月、占領を批判するビラを駅頭でまいているときに逮捕されました。41年5月、彼は無罪とされ、釈放令が出ましたが、ドイツ軍は放免に反対し、彼をシャトーブリアンの収容所に移したのです。
同収容所での銃殺に際し、ギーをはじめ27人の共産党員は目隠しを拒否し、「フランス万歳」を叫びながら死んでいきました。この処刑の少し前、彼は両親に手紙を書きました。
「ぼくは間もなく死にます。二人、とくに母さんに望みたいのは、勇気をだしてほしいということです。ぼくは今、ぼく以前に生きてきた人たちと同じように勇気をだしたいと思っています。もちろん、生きることができたらと願っています。でも、心から切に願うのは、ぼくの死が何かに役立つということです。…お父さん、お母さんにもでしたけど、心配をかけました。最後になりますが、ありがとうといいたい。父さんがつけてくれた道を歩むためにぼくが最善を尽くしたと知ってほしい。ぼくの大好きな仲間たちや弟。みんな、さようなら。17歳と半年! 短い人生だったけど、なにも悔いはありません。あなたたちと別れることを除けば…」
この処刑後、ドイツ軍はさらに50人の銃殺を示唆。フランス全土に衝撃を与えました。海外からフランスの解放を訴えたドゴール将軍は銃殺刑の3日後、「敵はわれわれの殉教者を銃殺することによってフランスに恐怖を与えようとしている。フランスは敵を恐れていないことを示すだろう」とラジオ放送で訴えました。10月29日、新聞はヒトラーが新たな処刑をやめさせたと報じました。
銃殺の最後の様子を伝える文書は、ナチス占領下、ゲシュタポの目をくぐり、手から手へと伝えられました。(日本版では『愛と死の肖像』=青木文庫、アラゴン、淡徳三郎編訳=として出版されています)(伴)
〔2007・6・2(土)〕