2007年8月4日(土)「しんぶん赤旗」

美空ひばりが大切にした反戦の歌とは?


 〈問い〉 美空ひばりが広島で反戦歌をうたったことがあると聞きました。どんな歌ですか?(宮城・一読者)

 〈答え〉 美空ひばりは1500曲余の持ち歌の中で、反戦の思いをこめた「一本の鉛筆」(詞・松山善三、曲・佐藤勝)という歌をとても大切にし、1974年の第1回と、亡くなる前年の第15回(88年)の2度、広島平和音楽祭にでて、うたっています。

 「私は横浜に生まれました。幼かった私にもあの戦争の恐ろしさは忘れることはできません。これから二度とあのような恐ろしい戦争が起こらないよう、皆様とご一緒に祈りたいと思います。いばらの道が続こうと、平和のためにわれ歌う」

 74年のときには、ひばりは、歌う前の口上でこう語って、一本の鉛筆があれば、愛や命、平和への思いを書くと、3日前に作られたばかりの曲を熱唱します。

 ひばりが、生まれ育った横浜市磯子区でB29による空襲に遭ったのは、45年4月16日、7歳のときでした。鮮魚商を営んでいた父が出征したあと、母が苦労してつくった自家用の防空壕(ごう)に入って難を逃れました。しかし、近所の家が焼夷弾(しょういだん)を浴びて燃え、撃墜されたB29が落下していくおそろしい体験をしました。ひばりは自伝に、「その夜の光景は、今でもありありと思い出す」と記しています。

 18歳(55年)のときには、「今何が一番欲しいか」というインタビューに答えて、「この世界から戦争がなくなってほしい」と、いっています。女優の森光子さんに贈った色紙にも『いばらの道がつづこうと 平和のために我れ歌う!』と書いています。

 87年、入院し、復帰が無理といわれていた中、ひばりは、ふたたび広島平和音楽祭に参加し、楽屋にベッドを持ちこんで点滴をしながらうたいました。

 翌89年6月ひばりは永眠します。(享年52歳)

 最後の放送となった89年3月のラジオ番組でも、自分で選んだ10曲に「一本の鉛筆」を入れ、広島平和音楽祭にも触れてこの曲を説明しました。(喜)

 〔2007・8・4(土)〕


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