2007年8月15日(水)「しんぶん赤旗」
戦没した京大生 永田和生とは?
〈問い〉 無性に戦死した人々の声にふれたくて、『きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記』(岩波文庫)を読み返しました。そのなかに、「京大の共産主義学生グループを指導」した永田和生の日記と手紙があり、「昭和15年の事件に連座した仲間はみな戦線にでた」とありました。永田はどんな人で、どんな事件だったのですか?(岡山・一読者)
〈答え〉 戦前の天皇制政府は、侵略戦争をおしすすめるために、日本共産党の破壊に攻撃を集中し、良心的な自由主義者にも迫害の手をのばしました。これに抵抗し、京都では1935年、新村猛、真下信一、久野収、武谷三男らによって「世界文化」が創刊され、京大学生のなかでは36年初めごろ、反ファシズムの非公然抵抗組織がつくられ、同年創刊の「学生評論」が広がりをみせました。しかし、「学生評論」も38年に廃刊、活動を担った永島孝雄、布施杜生(布施辰治弁護士の三男)は獄死します。
三重県伊勢市、酒屋の三男として生まれた永田和生が京大農学部に入学した38年4月は、こうしたときでした。
国中が戦争一色にぬりつぶされていくなかで、永田らは読書会を力に、京大学友会の戦時体制化に内部から抵抗し、41年1月、グループ19人が治安維持法違反で検挙されます。特高が描きだした筋書きは次のようなものです。
「彼等左翼学生にありては昭和十四年春頃よりレーニン著『帝国主義』『ロシアにおける資本主義の発達』上下巻…各種左翼文献をテキストとする学内非合法研究グループを形成し、…当局の視線を逃れ専ら個人的啓蒙に重点を置き、学徒的理論研究を基礎とする長期戦下の客観情勢を唯物弁証法の立場より過大に分析検討し、もって相互の意識昂揚とメンバー獲得に努め、あるいは学内合法機関を利用する一般学生大衆の啓蒙に狂奔しつつあり」(「特高月報 昭和16年1月」)
永田は執行猶予で出所し、京大卒業直後に陸軍召集、44年7月4日、インド、インパールで戦病死します。28歳の短い生涯でした。
実家の蔵には徳永直の『太陽のない町』、魯迅全集、小林多喜二の『蟹工船』が残されていました。入隊後の日誌に、永田は第2次世界大戦全局への透徹した分析や、兄弟への深い思いやりを書いています。永田が祖国を離れるにあたって活動をともにした竹田恒男に書き送った44年3月6日の手紙には―
「時局は急速に進展する。今や誰が最も心をときめかしていようか」「僕は考える。世界戦争の激しい展開の中を力強く、自らを貫徹してゆく法則を。…まさにこの時代に僕は前線の兵士となる。僕の想いを君は充分にわかってくれるだろう」「船は南に行く、アメリカの生産力と日本のそれと…」
永田の生涯をたどり『聞こえますか 命の叫び』(かもがわブックレット、06年刊)を著した児玉健次氏(元衆院議員)は、「この一言に、永田は万斛(ばんこく)の心情をこめたのではないか」と書いています。
(喜)
〔2007・8・15(水)〕