2007年8月16日(木)「しんぶん赤旗」
敗戦を前に獄死した市川正一とは?
〈問い〉 宮城刑務所で獄死した市川正一とは、どんな人ですか? (福島・一読者)
〈答え〉 市川正一は、日本共産党の創立当時からの党員であり、第2次大戦前の日本共産党の誇るべき指導者の一人です。天皇制権力の野蛮な迫害で16年間も獄につながれ、敗戦の半年前の1945年3月15日、ついに、宮城刑務所で衰弱死しました。53歳でした。
市川は、山口県宇部市に生まれ、早稲田大学を卒業、読売新聞社に入社、18年、同社への軍部の影響浸透に反対してストライキを計画して失敗し退社、その後、国際通信社の翻訳記者などをします。このころから、河上肇の出していた『社会問題研究』などを購読し、社会主義を研究、22年には、早稲田の同窓の平林初之輔、青野李吉らと、月刊雑誌『無産階級』を発刊。23年1月、日本共産党の結成を知ると、すぐに入党しました。
その後、市川は党の理論機関誌『赤旗』や雑誌『マルクス主義』の編集委員をし、『日本金融資本発達史』を著すなどしながら、26年の日本共産党再建大会で党中央委員に選ばれ、金融恐慌下の国民生活の防衛闘争や中国への侵略に反対する「対支非干渉同盟」の組織、28年2月の「赤旗」創刊と初の普通選挙で山本宣治ら2人を当選させるたたかいの先頭に立ちました。
29年4月28日、検挙された市川は、「われわれは日本共産党員であるがゆえにこの法廷に立たされている」と、自分たちが他のいかなる「犯罪」によるものでもなく、日本の労働者階級と人民の利益を擁護してたたかう、日本共産党の一員であるがゆえに、ただそのゆえにのみ、法廷にたたされているとのべて、裁判の反人民的性格をきびしく糾弾しました。これは、党の性格と伝統、その任務と目的をひろく国民に知らせるためにおこなったものでした。
市川は陳述を「一言でいうと、私の全生活は、日本共産党員となった時代とそれ以前の時代との二つにわけられる。そして日本共産党員となった時代が、自分の真の時代、真の生活である」という言葉で始め、「党の発展は必然である。党の勝利、すなわちプロレタリアートの勝利は必然である」という言葉で結びました。(翌32年、『日本共産党闘争小史』として、非合法出版)
市川は、獄中の非人間的な待遇のために栄養失調となり、歯を失ってほとんど食事もできない状態になりますが、それでもなお燃えるような闘志をもって侵略戦争に反対し、断固としてたたかいつづけました。
〈参考〉『不屈の知性』(小林栄三著)、『獄中から―心優しき革命家・市川正一書簡集』、『戦前日本共産党幹部著作集・市川正一集1〜3巻』(以上、新日本出版社)、『市川正一公判陳述』(新日本文庫)(喜)
〔2007・8・16(木)〕