2007年8月22日(水)「しんぶん赤旗」
沖縄人民党と日本共産党の合流の経緯は?
〈問い〉 NHKテレビ「その時歴史が動いた」で沖縄人民党の瀬長亀次郎さんが沖縄の人たちから絶大な支持と信頼をうけて、祖国への全面復帰をかちとるためにたたかい抜いたすばらしい人だと感動しました。その後、日本共産党と人民党は合同しますが、その要因と経緯を教えてください。なお、瀬長さんが日本共産党副委員長になられたことをNHKが紹介しなかったのはおかしいです。(大阪・一読者)
〈答え〉 沖縄人民党が、日本共産党と合流を決めたのは1973年10月です。
沖縄人民党は47年7月20日、アメリカの軍政下に、日本共産党が公然と活動できない条件のもとで、ポツダム宣言の趣旨にそった民主主義の確立をめざして創立されました。56年、瀬長亀次郎書記長が那覇市長に当選、翌年、米軍により追放されますが、人民党は弾圧に屈せず、祖国への真の復帰、軍事基地の撤去、県民の生活擁護のために、大衆的な民主的政党として不屈にたたかい、68年11月の「琉球政府」主席選挙では、革新共闘会議がつくられ、屋良朝苗主席を実現するまでになりました。
人民党をはじめ沖縄と本土の民主勢力は63年以来毎年、サンフランシスコ条約が発効した民族屈辱の日の4月28日、北緯27度線上で沖縄返還要求海上大会をひらくなど連帯をつよめます。70年4月には、日本共産党国会議員の春日正一議員団総会長と林百郎衆院国対委員長が渡航の権利をかちとり初めて公然と沖縄の土をふみました。日本共産党はこれ以後、沖縄現地でも、沖縄人民党と提携したたたかいを積極的にすすめ、70年11月の国政参加選挙では、沖縄人民党と革新統一勢力の勝利のために奮闘、71年8月には、沖縄で最初の「人民大学」を、沖縄人民党との共催でひらき、9月には、「赤旗」の即日配達体制を確立しました。
たたかいを通じて、沖縄人民党は、日本共産党との連帯をしだいにつよめていきました。
72年5月、沖縄の「施政権」返還という新段階をうけて、沖縄人民党は7月の中央委員会総会で、「科学的社会主義の党へ発展前進する」ことを決定し、組織的合流のための準備をすすめます。そのさなかの72年12月の総選挙では、党が推薦した沖縄人民党候補の瀬長氏をふくめ日本共産党・革新共同は40議席に躍進します。
こうして、沖縄人民党は73年10月31日、臨時大会をひらいて合流を決定します。新発足の日本共産党沖縄県委員会の初代委員長には、瀬長亀次郎氏がつき、戦前、戦後をつうじてはじめて日本共産党の旗が沖縄に公然とひるがえったのです。同年11月の日本共産党12回大会は、瀬長氏を中央委員・党副委員長に選出します。(喜)
〔2007・8・22(水)〕