2007年8月23日(木)「しんぶん赤旗」
『貧乏物語』を書いた河上肇とは?
〈問い〉 『貧乏物語』を書いた河上肇は日本共産党員だったのですか?(東京・一読者)
〈答え〉 河上肇(はじめ)は、戦前の絶対主義的天皇制が支配した暗黒の時代、非合法下の日本共産党にすすんで加わった誠実な経済学者です。
河上が京都帝国大学教授となるのは1915年のことです。河上は、16年9月から、大阪朝日新聞に「貧乏物語」を連載し、資本主義社会の生む貧困と害悪を暴露して読者に感銘を与えました。しかし、それはまだ、社会のすべての人が「心がけを一変」して無用のぜいたくをやめれば「貧乏の根絶」が可能だというものでした。学問上で科学的社会主義への接近を始めた河上は19年には30版も重ねていた『貧乏物語』を絶版にし、同じころ『社会問題研究』という個人雑誌を発行し、マルクスの理論を紹介。『賃労働と資本』『資本論』第1巻の翻訳書等も刊行しました。
26年、治安維持法の最初の適用として学生社会科学連合会への弾圧が加えられ、同会の指導教授となっていたことが口実にされ大学を追放されます。
その後、河上は30年2月の総選挙・京都1区に労農党から立候補。非合法下の日本共産党と接触し、国崎定洞が送ってくれたコミンテルン機関紙掲載の「32年テーゼ」を翻訳、32年9月、53歳で日本共産党に入党します。身を潜めていた家で入党通知をうけた河上は「たうたうおれも党員になることが出来たのか」と、「たどりつき、ふりかヘりみれば、やまかはを、こえてはこえて、きつるものかな」という一首を詠みます。
しかし、はげしい暴圧とテロのなかで33年1月12日に検挙され、転向を強要されます。河上は「獄中独語」と題する文章を書きます。それは「実際運動とは関係を絶ち元の書斎に隠居する」というもので、同じ時期に、党を公然と攻撃・破壊する側にまわった佐野、鍋山らの転向声明とは、大きく異なっていました。37年6月、出獄した河上は、健康悪化のなかで、自叙伝を執筆。多くの知識人が時流に乗って侵略を賛美したことに憤慨して、「言ふべくんば真実を語るべし、言ふを得ざれば黙するに如(し)かず」という詩をひそかにつくっています。
終戦2カ月後、河上を党に迎えるために党幹部が訪問すると、栄養失調で衰弱しふせっていた身を起こし正座し「終始弱い態度しか取り得ざりしものにて、諸君に対し面目なし」とのべ、戦後も党員として認められた感激を日記に「隠居の老人…役に立つべき仕事あらば本望」と記しました。46年1月30日、党の前進を願いつつ、67歳の生涯を終えた河上に、党中央委員会は「革命の闘士、同志河上肇の死をいたみ、われら一同闘争に邁進する」とその死を深く悼む電報を送りました。(喜)
〈参考〉『不屈の知性』(小林栄三著、新日本出版社)、『河上肇・自叙伝』(岩波文庫)
〔2007・8・23(木)〕