2007年9月19日(水)「しんぶん赤旗」

プロレタリア作家・中西伊之助とは?


 〈問い〉3日付4面に出ていたプロレタリア作家の中西伊之助さんとはどんな人ですか?(東京・一読者)

 〈答え〉1887年2月8日に京都府久世郡槇島村(現・宇治市)の農家に生まれ、1958年9月1日に亡くなった中西伊之助は、作家・社会運動家として活躍しました。

 少年時代から、陸軍宇治火薬製造所、鉄道機関車掃除夫、対馬海軍修理工場などで働きながら苦学し、作家としての力を蓄えました。朝鮮で新聞記者をしていた時、藤田組による鉱山労働者の虐待を記事に書いて投獄され、この体験を後に『赭土(あかつち)に芽ぐむもの』に書きました。

 1919年、日本交通労働組合理事長として東京市電ストを指導し治安警察法で検挙投獄されました。そのかたわらで『赭土に芽ぐむもの』で文壇デビューし、「種蒔(ま)く人」の同人となり、以降は作家としても活躍しました。他に『農夫喜兵衛の死』『満州』『赤い絨毯(じゅうたん)』など多くの小説・評論を発表、「農民自治会」など社会運動に駆けずりまわりました。

 アジア太平洋戦争中、日本共産党が弾圧で壊滅的打撃をうけるなか、堺利彦らと日本大衆党に参加。多くの無産政党が戦争協力の道をたどるなか、36年、加藤勘十、鈴木茂三郎らが反ファッショ統一戦線結成をめざす「労農無産協議会」(労協)を結成、伊之助はこれに加わります。この間に出した『満州』や『軍閥』という戦争の本質を正確に批判する小説がベストセラーになります。37年12月、「人民戦線事件」において、検挙され約2年留置場・巣鴨拘置所に入れられたのち、懲役1年、執行猶予3年の判決を受けますが、それでも反戦反ファシズムの立場を貫き、戦争協力の筆は持ちませんでした。

 45年終戦と同時に伊之助は「反ファッショ人民戦線を結成して人民の政府を樹立する」ため「人民文化同盟」を結成し、同年12月その機関誌として雑誌『人民戦線』を発行。休刊となる49年7月まで、幅広く著名な論客に論説の場を提供しました。この『人民戦線』は今年不二出版から復刻されました。

 45年10月30日、藤沢市片瀬の伊之助宅で、神奈川県の日本共産党を再建しました。そして戦後最初の衆議院選挙で当選(次点・繰り上げ)し、衆議院議員を2期務めました。

 衆議院議員在職中に、「50年問題」が起き、徳田球一らが党中央に分派をつくり地下に潜り危険な冒険主義に走ります。伊之助はこれを激しく批判し離党しますが、党の統一が回復した58年には復党しました。

 ことし9月、新しい研究成果を付け加えた『農夫喜兵衛の死・新訂版』(つむぎ出版)が刊行されました。(水)

 〔2007・9・19(水)〕


もどる
日本共産党ホーム「しんぶん赤旗」ご利用にあたって
(c)日本共産党中央委員会
151-8586 東京都渋谷区千駄ヶ谷4-26-7 TEL 03-3403-6111  FAX 03-5474-8358 Mail info@jcp.or.jp