2007年9月29日(土)「しんぶん赤旗」
戦前、秋田の若き農民運動指導者 鵜沼勇四郎とは?
〈問い〉 戦前、秋田の若き農民運動指導者で獄死した鵜沼(うぬま)勇四郎とは?(秋田・一読者)
〈答え〉 日本共産党の党名には、反戦平和と国民のくらしを守ってたたかい、命を奪われた多くの人生が刻まれています。秋田県の若き農民運動指導者で、1938年(昭和13年)6月12日、28歳で獄死した鵜沼勇四郎もそうした一人です。
鵜沼は、10年(明治43年)、秋田県湯沢市の旧幡野村の小作農の家に生まれました。当時の秋田は、大正年間に入って急速に巨大化した地主制度と、29年(昭和4年)の大恐慌や続く凶作で、農村の窮乏化はすすみ、欠食児童、教員の給料欠配、婦女子の「身売り」などが激増しました。
昭和に入ってからは小作争議が34年487件、35年471件と全国一に広がっていました。北秋田郡前田村(現北秋田市)争議、南秋田郡下井河村(現井川町)争議、平鹿郡沼館町(現横手市)団平争議、雄勝郡湯沢町(現湯沢市)小川家争議などがその代表的な争議です。
鵜沼は、これらの小作争議を指導するなかで、32年に日本共産党に入党、秋田県党再建の責任者となり、32年4月から同年11月10日のいわゆる11・10弾圧(102人検挙)までの7カ月間に、県南を舞台に、20数人までに党員をふやしました。
鵜沼は、高等科2年のころは、石川啄木の歌集をふところにしのばせている多感な少年でした。18歳のころには、プロレタリア文学の雑誌『文芸戦線』や『戦旗』を読み、友人とスイカ畑の番小屋で、ひそかに社会科学の研究会をひらいたりしました。
彼を決定的に変えたのは、29年の前田村小作争議でした。大地主の一方的な小作料引き上げの通告に抵抗する農民組合にたいして、地主側は暴力団を使い、石合戦や日本刀で切り結ぶ凄絶(せいぜつ)なものでした。鵜沼は緊迫すると、がまんできず、家から2日間歩きとおして争議団本部にかけつけました。
前田村から帰った鵜沼は、雄勝農民組合の書記として職業的に活動するようになり、各地の小作争議の援助に飛び回り始めます。弱冠20歳。このころからずっと野良着で通したといわれます。彼がかかわった争議には、必ず婦人部と少年団がつくられて、地域ぐるみでたたかったことが特徴でした。デモでは、だれもが声をそろえて歌えるように、「モシモシ、××よ××さんよ、世界のうちでお前ほど、強欲非道なやつはない、どうして、そんなにひどいのか」と替え歌を作って歌いました。
32年検挙された鵜沼は実刑6年を受け、獄中ではエスペラント語を勉強していましたが、結核と刑務所の虐待によって、出獄間際に獄死しました。鵜沼と一緒にたたかった沼館町の島田平兵衛も全資産を農民運動に投じて同年7月、28歳で死去、十文字町(現横手市)出身の小川正治も41年8月、巣鴨刑務所で獄死しています。(喜)
〈参考〉『新版・不屈の青春〜戦前共産党員の群像』(山岸一章著、新日本出版社)
〔2007・9・29(土)〕