2007年10月6日(土)「しんぶん赤旗」
戦争に反対した新興仏教青年同盟とは?
〈問い〉 戦前、宗教界が戦争に協力していくなかで、これに抵抗し、新興仏教青年同盟をつくって運動した青年仏教徒がいたと聞きました。どんな運動だったのですか?(京都・一読者)
〈答え〉 新興仏教青年同盟(新興仏青)は、日本の中国侵略が本格化する1931(昭6)年の4月5日に結成され、「仏国土建設」「仏教の新時代的宣揚」「資本主義の改革」を内容とする綱領をかかげて活動しました。36(昭11)年12月7日、治安維持法違反で妹尾委員長らが、翌年10月には幹部が特高警察にいっせい検挙されて、運動は破壊され、終戦まで同盟員は特高警察の監視下におかれました。
新興仏青の同盟員は約400人、各宗派から青年僧侶らが参加し、反ファシズムを主張した月刊紙「新興仏教の旗の下に」は2000部が発行されたといわれています。活動では「ファシズム批判と新興仏教」「戦争と国際平和問題」などの演題で反戦平和の講演会を主催し、労働農民運動や水平社運動と連帯しました。
新興仏青は委員長・妹尾義郎、書記長・林霊法、国際部長・井上丕路、調査部長・壬生照順、出版部長・志賀静丸という役員体制でした。指導的役割を果たした妹尾義郎は、1918年に結成された大日本日蓮主義青年団に参加していました(この運動には田中智学や石原莞爾などの軍国主義者や宮沢賢治なども加わっていました)。妹尾は山梨県の小作争議に地主からの要請で小作人説得に出向きますが、小作人の惨状を知って日蓮主義運動から離れ、仏教の原理的立場にたった新興仏青の組織化に進んだといわれています。妹尾は36年4月の東京府会議員選挙に「反ファッショ・反官僚の人民戦線」をスローガンとして労農無産協議会公認で立候補しています。
新興仏青のメンバーは、戦後、花岡鉱山で殉難した中国人遺骨送還運動や原水爆禁止運動などにとりくみました。妹尾は1960年元旦の日記に「多年の宿望であった共産党に去年12月に入党した」と書き込み、翌年8月に亡くなりました。妹尾没の翌年、日本宗教者平和協議会が結成され、壬生照順は理事長に就任しました。新興仏青運動の精神は今日の宗教者平和運動に受け継がれています。(平)
〔参考〕稲垣真美『仏陀を背負いて街頭へ』(岩波新書)、日本宗教者平和協議会『現代に生きる宗教者の証言』(新日本新書)。
〔2007・10・6(土)〕