2007年10月10日(水)「しんぶん赤旗」
裁判員制度は負担を重く感じるのですが?
〈問い〉 裁判員制度は、もし自分がせよといわれたらと思うと負担を重く感じるのですが?(広島・一読者)
〈答え〉 陪審裁判を描いた『十二人の怒れる男』というアメリカ映画があります。有罪無罪を決める評議に入ったところ、一人が有罪の証拠に疑問を出します。他の陪審員たちは「日常生活が中断される」「ひいきの野球チームの試合を見ることができない」など不満や怒りを表すなかで、それでも思い直してとことん議論をします。その結果、全員が「無罪」の意見になり、各人が達成感をもって家路につく姿が描かれています。
裁判員制度ができたのは、政府が押しつけたのではありません。司法制度改革審議会のなかで市民団体や労働組合、日弁連などの代表が、国民が裁判に参加する陪審制を強く主張する議論を反映してできたのです。
こうした国民参加の制度は、多くの諸外国で、国民が有罪無罪を決める陪審員制度、国民が裁判官と同じ資格で裁判に参加する参審員制度などの形で普通に行われています。それは、裁判への参加が単なる「義務」ではなく、司法権に参加することが主権者である「国民の権利」として理解されているからです。
この制度が導入された背景には、日本の刑事裁判の実情があります。国民の常識では考えられない判決や、「えん罪」がしばしば起きています。その根本原因に、試験に合格して研修後、社会経験の少ないまま裁判官になり、着任後も社会生活から切り離されることの多い裁判官に刑事裁判がまかされていることがあげられます。また、裁判官が警察・検察のウソの自白強要によって作られた自白調書を証拠として扱うことが「えん罪」の大きな要因となっています。
裁判員制度では、裁判員が法廷での直接の証言や証拠のみにもとづいて、犯罪行為が本当にあったのかについて、自らの生活体験にそった常識的な意見をのべることができます。国民が直接参加する裁判員制度によって、わが国の刑事裁判を改善する機会とすることができるでしょう。
たしかに、普通の市民が刑事裁判に参加するには、一定の負担をともなうことは事実です。しかし、制度創設の趣旨を考え、積極的によりよい制度に育てていくことが大切だと思います。
なお、法律では一定の辞退の基準が設けられていますが、これは、特定の人々に偏らず、多様な国民が広く参加してもらうためのもので、「徴兵制」のような考え方とは全く異なります。
これからも裁判員制度の意義の普及や国民が参加しやすい条件づくりのための努力がいっそう必要だと思います。(光)
〔2007・10・10(水)〕