2007年10月20日(土)「しんぶん赤旗」

特高に逮捕され闇に葬られた党創立者の一人、上田茂樹とは?


 〈問い〉 特高に逮捕され闇に葬られた党創立者の一人、上田茂樹とはどんな人ですか?(香川・一読者)

 〈答え〉 上田茂樹は、大分県中津藩(現中津市)の出身で自由民権運動の闘士だった上田長次郎(のちに戴憲と改名)の八男として1900年7月27日、札幌で生まれました。

 父の事業失敗で、中津の中学を2年で中退し、17年に上京、昼は保険会社に働き、夜は正則英語学校で勉強、このころから社会主義文献を読み始め、山川均、堺利彦らのML研究会に参加、21年暮れ、山川らと「前衛社」という雑誌の発行を始めました。父が65歳で病没、その半年後の22年7月15日、22歳の茂樹は、父たち自由民権のたたかいを真っすぐに継承する日本共産党の結成に参加、翌年、中央委員になります。

 23年6月、第一次共産党弾圧で渡辺政之輔らとともに茂樹は投獄され、そのことで関東大震災中の虐殺を運よく免れ、12月に保釈されると、24年5月、日本共産党の理論機関誌『マルクス主義』の創刊に参加、ついで25年9月に創刊された合法面の機関紙としての「無産者新聞」の編集にたずさわります。26年5月、治安維持法違反で禁固10カ月の判決を受け下獄、翌年1月出獄すると、すぐに27年テーゼに基づき、党中央アジプロ(宣伝煽動)部と党関東地方委員長を担当、工場細胞(現支部)づくりに全力をあげます。その一方、『無産階級の世界史』『世界歴史』を執筆、パブロビッチ『帝国主義の経済的基礎』など5冊の訳書を刊行、学習会講師としても活動します。

 この最中の28年3月15日の大弾圧で逮捕され、獄中で結核を再発しますが、30年はじめには結核病舎で30人の同志たちの指導者として、待遇改善のためにたたかいます。のちに「赤旗」は「上田同志の獄内闘争の最大のものは31年8月29日の朝鮮併合記念日の反対デモ、そしてそのデモヘの暴力弾圧に反対して組織されたハンガーストライキである。このハンストは、デモに参加した朝鮮人被告の懲罰反対を要求して組織され、病舎のみでなく市ヶ谷刑務所全体をまきこむにいたった。刑務所はこの形勢に驚いて、ついに懲罰を取り消さざるをえなかった」と書きました。

 かっ血、重肺患のため、執行停止で出獄した上田茂樹は党中央委員として直ちに活動に復帰しますが、32年4月2日、街頭連絡中にスパイの手引きによって逮捕され、そのまま消息を絶ちます。警視庁で虐殺されたことは確実ですが、虐殺者の追及も遺体の捜索もされないままに今日に至っています。31歳の若さでした。「赤旗」は「同志上田茂樹は敵の追及に一言も答えなかった。そして同志上田は虐殺されたのだ。ただちに大衆的抗議を!」と訴えました。

 上田茂樹が消された翌33年2月には西田信春が消息不明になり(後に官憲による拷問死とわかる)、次いで小林多喜二が虐殺されました。

 反戦平和と民衆の解放のために不屈にたたかい抜いた彼らの人生は、日本共産党の歴史に深く刻まれています。(喜)

 〔2007・10・20(土)〕


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