2007年11月3日(土)「しんぶん赤旗」
戦前、22歳で命を奪われた日本共産党員、藤本仁太郎とは?
〈問い〉 戦前、関西地方の日本共産党員のたたかいはすごかったと先輩に聞きましたが、そのなかで、22歳で命を奪われた、藤本仁太郎という名がありました。どんな人ですか?(大阪・一読者)
〈答え〉 戦前、天皇制権力の暴圧のもとで、少なくない日本共産党員が侵略戦争に反対し国民主権の世の中をつくるためにたたかい、命を奪われました。1934年(昭和9年)12月8日の夜明けに22歳11カ月の生涯を終えた藤本仁太郎(じんたろう)もそんな一人です。
藤本は、32年10月30日の弾圧で壊滅した日本共産党関西地方委員会の再建のために21歳の若さで関西地方委員長となります。翌年3月に逮捕され、特高警察の残虐な拷問と獄中の虐待によって重体となり、仮釈放され23日後に亡くなりました。
藤本は兵庫県城崎郡日高町(現豊岡市日高町)の自作農家の6人きょうだいの二男で、村の高等小学校を卒業すると製糸工場の給仕となり、昼は働き夜は中学講義録で勉強しました。
世界恐慌下、低賃金と激しい労働、劣悪な労働環境の製糸工場の中で、藤本は、女性労働者の待遇改善の要求を支持して会社側とあらそい、30年3月、在職4年で退職します。その後、生家の農業を手伝い、村の青年団に入って、プロレタリア文学・芸術運動の機関誌『戦旗』をかくれて読むように。読書会や回覧雑誌を組織する計画をたてますが、警察からのよびだしと親の反対をうけ、その年(30年)の12月上旬、家を出て神戸へ行き、シバタゴム工場で働き始めます。工場では、文化サークルを組織、翌年に非合法化下の日本共産党に入党、工場に党員4人の細胞(現支部)をつくり、細胞長になり、工場新聞を発行しました。
当時、関西の党組織は31年8月26日の大弾圧で約1千人が検挙され、下司順吉、峠一夫など185人が起訴されて壊滅的な打撃をうけた直後でした。検挙を逃れた共産党員は、各工場に細胞をつくり、藤本は再建された党神戸市委員会の委員に選ばれました。神戸製鋼のある職場では党員7人で、500人中200人の労働者を革命的な工場委員会に組織しますが、32年7月、ストライキ準備中に工場だけで120人以上が検挙されました。その一人、岡山県津山市出身の須江操は、特高警察の野蛮な拷問でひん死の状態になって、仮出所後4日目に21歳で死去しました。
32年10月30日の大弾圧のさい、逮捕をまぬがれた藤本は、ひるむことなく、関西の党組織再建の中心になります。33年2月26、27日には、小林多喜二の虐殺に抗議したプロレタリア演劇団の追悼劇上演(中之島公会堂で5千人の労働者が参加)や、同27日の神戸三菱造船労働者2千人によるストライキなど勇敢なたたかいをつづけました。
しかし、計画していた、小林多喜二の労農葬の3日前の3月12日夜、ついに藤本は天王寺の路上で逮捕されたのです。
ふたたび、戦争への道を歩まないためにも、これら反戦平和のためにたたかい抜いた一人ひとりの人生を語り継ぐことが必要ではないでしょうか。(喜)
〈参考〉『新版・不屈の青春〜戦前共産党員の群像』(山岸一章著、新日本出版社)
〔2007・11・3(土)〕