2007年11月10日(土)「しんぶん赤旗」
反戦に命を捧げた遠藤元治とは?
〈問い〉 戦前、新潟県で戦争に反対する人民戦線運動に参加し、特高の拷問のために命を奪われた遠藤元治(もとじ)とはどんな人ですか?(新潟・一読者)
〈答え〉 遠藤元治は、戦前、侵略戦争に反対し、27歳で命を奪われた新潟県長岡市出身の日本共産党員です。遠藤ら、反戦平和・主権在民の旗を掲げた党の戦前の不屈のたたかいは、真の愛国主義・民主主義を体現したもので、一政党の誇りにとどまらない日本の戦前史の誇りといえるものです。
遠藤は、1911(明治44)年、長岡市の実業家の3男として生まれ、長岡中学をへて、1929年(昭4年)、第三高等学校(京都大学の前身)へ入学します。ちょうど、世界恐慌で失業、農業危機が深刻となり、労働争議・小作争議が続発、天皇制政府は中国への侵略を準備し、治安維持法改悪に反対した山本宣治が右翼テロによって刺殺された直後でした。
前年には大学でも軍事教練がとりいれられましたが、三高には、まだ自由の伝統が残り、自由寮はその名の通り、出入りの制限もなく、寮監もおらず、学生の自由に任されていました。そこに、寮に門限を設け、正副総代も学校が任命するなどの規制が出されます。
30(昭5)年7月2日、全学900余のうち700人以上が参加する学生大会がひらかれ、学生たちは寮に籠城(ろうじょう)します。しかし一週間後、警官隊が寮に乱入、遠藤(当時2年)は、責任者として退学処分になります。
その後、遠藤は、神戸のゴム工業所事務員となり、大阪地方の全協(日本労働組合全国協議会)で活動、33年3月ころに故郷の新潟県に戻ります。
当時、新潟の党は前年(32年)の弾圧によってほぼ壊滅していました。遠藤は、同年4月ごろに入党、農民組合の書記をしながら、東京・新潟間を往復し、「赤旗」(現在の「しんぶん赤旗」)を配布、県党再建に力をそそぎました。
しかし、天皇制政府は、32年11月には党中央委員・岩田義道を、翌33年2月にはプロレタリア作家小林多喜二を拷問で虐殺、遠藤も33年8月11日、逮捕されます。遠藤は、過酷な拷問にも「死をもって党の秘密を守る」と二十数日間ハンストをおこない、極度に衰弱、その後、懲役2年の刑で市ケ谷刑務所へ送られますが、35年暮れ、執行猶予処分を受け、実家で特高の監視つきの療養をしばらく続けます。
そして、遠藤は、ふたたび敢然として、北日本農民組合(北農)に青年部を確立し、これをテコに農民運動の統一と反戦活動の拡大に情熱を傾けるなか、37年3月、約40人が検挙された「北農青年部事件」でふたたび検挙され、はげしい拷問と獄中の虐待のため重体となり39年10月11日、仮出獄、2日後の13日、その尊い生命を人民解放のために捧(ささ)げつくし生涯を終えました。(喜)
〈参考〉『美しい未来を求めて―反戦にいのちを捧げた遠藤元治27歳の生涯』(加藤栄二著、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟新潟県本部発行)
〔2007・11・10(土)〕