2007年11月14日(水)「しんぶん赤旗」
共産主義では宗教は不必要?
〈問い〉 私は、宗教は不満からの逃げ道と考えています。それならば、共産主義によって不満が取り払われれば、宗教は不必要になるのではないでしょうか。共産主義はそもそも宗教否定主義と思っていただけに、そうではないということをこの欄(07年4月7日付)で知りショックを受け、あらためて質問させていただきました。(メールで、S生)
〈答え〉 宗教は原始社会に芽生え、人間が生活する自然条件や社会のあり方によってさまざまに変化してきました。資本主義社会では、一部の大企業と大資産家が優遇され、民衆の圧倒的多数はつねに生活の没落と破たん、人生の転落と破滅の危機感におそわれています。人間の老病死や、資本主義の目に見えない力への恐怖に、今日の宗教の存在理由の根源があります。これが宗教についての科学的社会主義の見方です。
ですから、宗教を否定するのではなく、弱肉強食の社会、非人間的労働や人間の尊厳をふみにじる社会保障などにたいして、宗教を必要としている人びとと連帯して、社会的反撃をもってこたえ、よりよい社会を実現するとりくみが必要となります。
宗教は人間の内心の問題、精神生活に根ざしていますから、政治的な対策つまり政策で「消滅」をはかっても実現できないことは、250年にわたる徳川幕府の厳格な禁教政策のもとでも隠れキリシタンが受け継がれてきたことをみても明らかです。
日本共産党がめざしている共産主義社会では、戦争はもちろん貧困や格差、投機や自然破壊などの資本主義的悪徳の社会的基盤は廃絶されます。宗教のめざした人間の幸福の多くが現実に実現する将来社会で、宗教がどのように存続しているかは今後の探求課題ですが、人間社会であるかぎり、病気や寿命、結婚や家庭などの人間関係、自分の才能についての希望と現実などの悩みがなくなるとは考えにくいことです。
共産主義社会でも人間の苦悩にたいする精神的活動として宗教が存在する場合、自由な人間関係の社会の自由な精神活動が保障されることはいうまでもありません。
宗教の社会的役割としては、現世の苦悩の解決を天上にゆだねて民衆の社会的自覚をはばんだり、政治権力とむすんで権力者の支配を助けたりしたこともあります。同時に、宗教が民衆の立場にたって社会進歩を推進した歴史があります。
20世紀には「神を信ずる者も信じない者も」共同してファシズムに立ち向かい、今では異なる信仰の宗教者が共同する平和運動が発展しています。
信教の自由を擁護し、政教分離の原則の徹底をはかることを綱領に明記する日本共産党は、オウムや統一協会などの反社会的集団にたいしては犯罪として対処することをもとめ、創価学会・公明党の政教一体にも反民主主義的な集団として批判しています。同時に、憲法第9条を守る運動をはじめ平和と民主主義のために宗教者との共同を重視しています。(平)
〔2007・11・14(水)〕