2007年11月17日(土)「しんぶん赤旗」
「海行かば」 天皇崇拝は昔からなの?
〈問い〉 「海行かば」とはどんないわれがある歌なのですか。民衆の天皇崇拝は昔からあったのですか?(愛知・一読者)
〈答え〉 海行かば 水漬(みず)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍 大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ 顧(かえり)みはせじ(『万葉集』)
これは、大伴家持が越中国の国守に赴任していたときの749年、家持が詠んだ長歌「陸奥国より金を出せる詔書を賀(は)ける歌」の一節です。
聖武天皇は、大仏に塗る金が奥州で発見されると喜んで、詔(みことのり)を発し、その中で、天皇の「内の兵」(親衛隊)としての大伴、佐伯2氏をたたえ、家持にたいする叙位もおこないました。「海行かば…」はもともと大伴、佐伯両氏に伝わる戦闘歌謡で、詔にもそれが引かれていました。
藤原氏の進出で、大伴氏の伝統である天皇の親衛隊の地位を失っていた家持は、詔を読み、「天皇はわれらを見捨てていない」と大いに感激、「詔」にある「海行かば…」の言葉を詠み込んで歌をつくったのです。
この家持の歌に、東京音楽学校(現・東京芸術大学)講師、信時潔(のぶとき・きよし)が曲をつけたのが「海行かば」です。1937(昭和12)年、日本放送協会が国民精神総動員強調週間のキャンペーンとして、信時に作曲依頼したものです。
この歌が、天皇に殉じた戦死者をたたえる歌とされていくのは、42(昭和17)年3月6日、日本放送協会が、真珠湾攻撃の9人の戦死者発表後、初めて放送してからです。同年12月、大政翼賛会はこの歌を「国民の歌」に指定、その後、玉砕の発表ごとに放送されました。
しかし、歌詞にあるような天皇崇拝が、民衆のあいだに昔からあったわけではありません。
大和大王家が豪族たちを征して支配を確立するのは壬申の乱(672年)によってです。乱で功績をあげた大伴御行(みゆき)は「大君は神にし坐(ま)せば」で始まる2首を残していますが、天皇を神と文字で表現されるのは天武天皇以降のことです(直木孝次郎『日本の歴史2・古代国家の成立』)。
家持の生きた奈良時代は、権力闘争がはげしく、家持もまきこまれ、因幡や薩摩へ左遷され、晩年はナンバー3の中納言までのぼりつめますが死後に官位をはく奪されました。権力闘争に生き残る、そのための天皇への忠誠の表明がこの長歌なのです。
しかし、家持は一方で、防人の歌もつくり編集しています。編集した一つが次の歌です。
防人に 行くは誰(た)が背と 問ふ人を 見るが羨(とも)しさ 物思(ものも)ひもせず 〈防人に行くのは、どなたの夫と悲しみもなく聞く人を見るとうらやましい〉
防人の悲しみをうたったのが家持であることも、きちんとみておくことが大切です。
貴族層はごく一部にすぎず、民衆は天皇崇拝とは無縁でした。平城京の人口は約10万人、貴族は百数十人、下級役人は数千人と推定されています。鎌倉から江戸時代まで、天皇の存在すら多くの人は知らなかったのです。天皇崇拝が強められるのは、明治になって絶対主義的天皇制が成立してからです。(喜)
〔2007・11・17(土)〕