2007年11月24日(土)「しんぶん赤旗」

「花岡事件」 最初に告発した医師とは?


 〈問い〉 私も「花岡事件」は日本国民が忘れてはならないことの一つだと思います。ところで、戦後、事件を最初に世間に知らせたのは日本共産党員だったと聞きました。このことをくわしく知りたいのですが。(東京・一読者)

 〈答え〉 アジア太平洋戦争末期に起きた「花岡事件」(22日付本欄参照)は、戦時中に報道管制がしかれただけでなく、戦後もマスコミ報道はまったくありませんでした。事件を最初に告発したのは1946年の『社会評論』7月号(ナウカ社、再建4号)に掲載された日本共産党員の一医師の論文でした。

 「ひとつの事実―花岡鉱山の中国人労働者に関する一医師の報告―」と題したこの論文は、鹿島組花岡出張所に強制連行された中国人たちが、「中山(ちゅうざん)寮」での虐待、劣悪な衣食住、カロリー不足などで次つぎと死亡した事実と、生き残った中国人たちが「ついに奴隷であることにがまんしきれなくなっ」て、一斉ほう起した事実を伝えました。

 400人超の死亡を「理由…のいかんにかかわらず人類の歴史の汚点」とのべ、「天皇制帝国主義(は)日本国内においても無数の中国人民の生命をうばった」と告発しました。

 著者は、秋田女子医学専門学校の高橋實医師(1912―89年)でした。高橋さんは戦前、共産青年同盟員で、この当時は日本共産党秋田県地方委員でした。のちに全日本民主医療機関連合会(民医連)会長になった方です。41年に中央社会事業協会から表彰された医学論文が治安維持法違反にとわれ、懲役2年(執行猶予5年)の判決(44年3月31日、仙台地裁)を受けました。判決確定で東北帝国大学を去り、45年4月から女子医専講師になったのでした。

 45年9月24日に花岡入りした連合軍総司令部(GHQ)は治安維持法など撤廃後の10月下旬、「信頼できる医者を派遣せよ」と県に命令。県から「なんとか助けてくれ」と懇請され、引き受けた花岡行きでした。

 高橋医師の滞在は11月1日から5日まで。生き残った全員の診察にあたり、治療方針を決めました。衛生状態改善方策は中国人たちの協力を得て即座に実行されました。GHQから権限を与えられて鹿島組の書類に目を通し、中国人たちの話から事件の真相をつかんだのでした。後に「真相がはっきりしてくるにつれて眠気の入り込む隙間はなくなった」「生き残っている人たちからは一人の死亡者も出すまいと心に決めた」(事件40周年集会)と語っています。

 次いで、最初に報道したのは留日華僑民主促進会機関紙「華僑民報」50年1月11日付で、1月20日付「しんぶん赤旗」(当時「アカハタ」)が全国に報道しました。大反響を巻き起こしたこれら報道のきっかけは、当時、日本共産党員だった金一秀さん(被強制連行朝鮮人)、李鐘応さん、党県委員会から派遣されていた佐藤和喜治さんらの中国人犠牲者の散乱遺骨発見(49年10月)で、党県委員会は取材に全面協力しました。

 当時の日本共産党の雑誌『新しい世界』51年1月号には、松田解子さんのルポルタージュ「花岡鉱山をたずねて」が掲載されています。(桑)

 〈参考〉萌文社『わが愛は山の彼方に 高橋實・人と著作』

 〔2007・11・24(土)〕


もどる
日本共産党ホーム「しんぶん赤旗」ご利用にあたって
(c)日本共産党中央委員会
151-8586 東京都渋谷区千駄ヶ谷4-26-7 TEL 03-3403-6111  FAX 03-5474-8358 Mail info@jcp.or.jp