2007年11月25日(日)「しんぶん赤旗」
歴史の重み伝えたい
沖縄戦・「祖国復帰」 体験者語る
沖縄県内で開かれている日本平和大会の分科会で二十四日、青年らが沖縄戦・「祖国復帰」運動経験者から体験を聞きました。沖縄戦の悲惨な体験や「祖国復帰」運動で米軍に対し、住民の心の奥底にうっ積していた要求を沖縄人民党(一九七三年、日本共産党に合流)が先頭になって受けとめるなかで信頼を獲得していった話に耳を傾けました。
約八十人の青年が集まり、七、八人ずつのグループに分かれ、体験者を囲みました。「知らないことが多すぎる。もっと自分たちが住んでいるところでもできることはないかと考えた」「地元で聞いたことを伝えていきたい」などの感想を語っていました。
仲松庸全・元治安維持法犠牲者国賠要求同盟県本部会長は、沖縄戦での自身の体験を語りました。
一九四五年四月、仲松さんはアメリカの砲弾や銃弾が降り注ぐなか逃げ惑いました。戦禍の厳しかった沖縄本島南部の戦線を三カ月間さまよいました。
壕(ごう)を探し回り、見つけては立ち寄りましたが、先に入っていた「皇軍」(日本軍)兵士に追い返されました。沖縄人はスパイだとののしられました。
摩文仁の岩陰に隠れていたとき、「皇軍」に見つかり、「そこを空けろ。出て行け」と迫られ、軍刀を鼻先に突きつけられました。「どうせ死ぬ」と思い手りゅう弾を構え、対峙(たいじ)すると「皇軍」は退き、難を逃れました。
最後となったガマでは目の前で、「皇軍」将校が一人で泣いていた少女のこめかみに銃口を当て射殺しました。仲松さんは「皇民化教育で天皇は神とされ、軍隊の命令は絶対とすり込まれていた」と話し、当時、すべてが軍の指揮下にあったことを強調しました。
沖縄人民党の那覇市議だった真栄田義晃さんは、「祖国復帰」運動について語りました。四七年に結成された人民党のリーダーだった瀬長亀次郎元那覇市長は、当時、「土地代を払え。水代を払え」とアメリカに求めました。占領されている時代で、思っていても殺される危険もあり、誰もなにも言えない状況のなかで、住民の先頭にたちました。
五四年九月、真栄田さんは人民党から那覇市議選に立候補して当選、米軍による農地の新規接収反対、適正補償などを求めて繰り返し街頭宣伝をして、ビラを配り、市民の支持を広げていきました。
分科会のなかで「どうしたら沖縄のような運動にしていくことができるのか」と参加者から質問されました。真栄田さんは「住民の思いから出てきた要求で統一と団結できることを追求すること」と答えました。
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