2007年12月8日(土)「しんぶん赤旗」

「蟹工船」は実際にあった話なの?


 〈問い〉 小林多喜二の『蟹工船』を読んで「いまの青年の働かされ方も同じだ」という声がでたそうですが、私も何十年前に読んだ記憶ですが、場面のリアルさが胸に焼き付いています。あの小説はモデルがあったのですか?(東京・一読者)

 〈答え〉 小林多喜二の小説『蟹工船』は、1926年(大正15年)に北洋漁業の蟹工船漁業のなかで実際に起きた事件が題材につかわれています。

 蟹工船は、底刺し網でとったカニを加工して缶詰にする、移動缶詰工場のような船です。1920年ごろから始まり、25年ごろから大型船に代わってゆき、26年には12隻、27年には18隻に急増し、乗り組みの漁夫や雑夫(ぞうふ)の数も27年には4000人をこえています。

 蟹工船の労働条件はひどく、監獄部屋制度の奴隷労働が強制されていました。26年には、蟹工船の博愛丸と英航丸での漁夫や雑夫の虐待事件が表面化し、「小樽新聞」や「北洋タイムス」がくわしく報道していました。

 多喜二は、執筆にあたり、函館にあった漁業労働組合の人たちや停船中の蟹工船の漁夫とも直接会い、話を聞き、新聞記事や資料を収集、小樽の海員組合員から航海生活のくわしい聴取をおこなうなど、かなり長期にわたる調査をつづけ、ノート稿を残しています。

 「蟹工船」のはじめの章に、函館を出航してカムチャツカヘ向かう博光丸が、暴風雨にあって沈没する秩父丸の救助信号をうけたのに、監督の命令で見殺しにする場面がありますが、これは実際にあったことです。

 秩父丸は26年4月26日、北千島の幌莚島沖で暴風雨のために座礁し、乗組員170人が遭難しましたが、近くを航行中の英航丸などが救助信号をうけながら救助に向かいませんでした。「小樽新聞」は、「秩父丸の遭難に醜い稼業敵、救助信号を受けながら知らぬ顔の蟹工船」(5月6日号)と、糾弾しています。

 博愛丸や英航丸での虐待事件についても「この世ながらの生地獄」という見出しで、こう書いています。

 「…病のためうんうん唸(うな)っている内田を…旋盤の鉄柱に手足腰を縛(しば)りつけ、胸には『この者仮病につき縄を解くことを禁ず 工場長』とボール紙に書いたものを結びつけ、食物もやらず…加藤と云う雑夫は同じく仮病と見なされ、…ウインチに吊(つ)るされ、空中高く吊るし上られて、船がローリングするためにぶらりぶらりと振り動く度に『あやまった、あやまった、助けてくれ』と悲鳴をあげて泣き叫ぶにも拘(かかわ)らず、鬼畜に等しき監督等は『斯(こ)うして一般の見せしめにするのだ』と快よげに嘲笑(あざわら)い、…一日の間一杯の水一食の飯も与えず虐待し…」

 秩父丸を見殺しにした英航丸でも、虐待に耐えかねて4人が脱走をはかり、監督たちが鉄の蟹かきで半殺しにします。英航丸では、この事件がきっかけに自然発生的なストライキが起きています。小説の船名・博光丸名は、この博愛丸と英航丸からとられています。(喜)

 〈参考〉手塚英孝著作集第2巻「『蟹工船』について」、小林多喜二全集第2巻「解題」

 〔2007・12・8(土)〕



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