2007年12月20日(木)「しんぶん赤旗」
1980年の「社公合意」とは?
〈問い〉 第24回党大会での不破前議長の発言で、1980年1月の「社公合意」に触れていますが、どんなものなのでしょうか。(奈良・一読者)
〈答え〉 いわゆる「社公合意」とは、当時の日本社会党(社会党=今日の社民党の前身)と公明党が、1980年1月10日にとりきめた「連合政権についての合意」のことです。
1970年代の後半には、日本共産党と社会党の間で、国政の問題を含むさまざまな分野で協力・共同を広げる努力が行われました。そして、3回の党首会談で、「長期の展望にたった統一戦線」の結集のための協議を続けることも約束していました。ところが、80年の「社公合意」に、日本共産党は「この政権協議の対象にしない」ことが明記され、それまで日本共産党と社会党の間で積み重ねてきた話し合いは反故(ほご)にされました。
この「合意」には自民党への批判が明記されておらず、他の政党との関係では共産党排除だけを明確にしたものでした。また、内容的にも、日米安保条約の堅持や自衛隊容認など、前年12月に公明党と民社党が結んだ「公民合意」に沿ったもので、事実上は、社会、公明、民社という3党の政権合意となっていました。
この「合意」以降、国政の場や全国的な規模での日本共産党と社会党との共闘は行われなくなり、「日本共産党を除く」形で国会運営が行われるようになりました。地方での革新統一の努力にもとづく革新自治体も、次々とくつがえされ、多くの自治体で日本共産党以外のすべての党派による「オール与党」体制がつくられました。
日本共産党排除という無法な体制は国民運動にも影響をあたえました。原水禁世界大会は77年以来、運動の国民的統一を願っての日本共産党と総評との話し合いを背景に、原水協と原水禁が合意し、統一開催されてきていましたが、86年の大会を前に総評・原水禁は核兵器廃絶を緊急課題にすることなどに反対し脱落しました。
日本共産党は、社会党を含めた統一戦線を結集する展望がなくなった情勢に対して、「無党派の諸勢力との協力・共同」によって統一戦線運動を発展させるという方針を決定しました。この方針にもとづく努力によって、全国各地に764の革新懇が組織され、全国革新懇は450万人の構成員を持つまでに発展しています。(石)
〔2007・12・20(木)〕