2007年12月22日(土)「しんぶん赤旗」
「韓国併合」は朝鮮からの要請という人がいるが?
〈問い〉 「韓国併合」は朝鮮人が願ったことだという人がいました。そんなことがあったのですか?(東京・一読者)
〈答え〉 1910年(明治43年)におこなわれた「韓国併合」=朝鮮植民地化は、明治政府成立以来の朝鮮侵略政策の帰結でした。
初代朝鮮総督となった寺内正毅は、黒田甲子郎編『元帥寺内伯爵伝』によると、「韓国併合」の祝宴で次の歌を詠みました。
小早川加藤小西が世にあらば
今宵の月をいかに見るらむ
この三人は、豊臣秀吉の朝鮮侵略に派遣された武将、小早川隆景、加藤清正、小西行長です。寺内は、朝鮮侵略の目的を果たせなかった豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争を頭に描きながら、三人の武将は、韓国併合をどう見るだろうか、おそらくよくやったと思ってくれるだろうと詠んだのです。明治の政治家や軍人たちは、明治政府の朝鮮政策を、豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争の続きとしてみていたのです。
「韓国併合」について「カイロ宣言」は、「朝鮮の人民の奴隷状態に留意し」といいました。しかし、日本は戦後もこれを認めようとせず、日本政府自身、長い間「併合条約」は「自由な意思、対等な立場で締結した」ものといい続けてきました。それを改めたのは、実に1995年になってのこと(村山首相談話)でした。
いまも、「韓国併合」を韓国人の「要請によったものである」とする出版物が後を絶ちません。そのさい持ち出されるのが、「一進会」の「合邦上奏文」提出です。韓国からも厳しい批判を受けた、文部省検定合格の『新しい歴史教科書』(扶桑社)は、「韓国の国内には、一部に併合を受け入れる声もあった……」と書きました(240ページ)。「一進会」を念頭においたものです。小林よしのり『戦争論』(漫画)も、「『韓国併合』は、韓国の最大政党である一進会の要請をうけたもの」としています。
一進会が「合邦上奏文」を提出したのは事実です。しかし、この「上奏文」を書いたのは、内田良平率いる日本の右翼国粋団体=黒竜会の武田範之(はんし)でした。黒竜会はアジア侵略を主眼においた団体で、明治政府の侵略主義政策の熱烈な下請け運動者であり、内田は一進会顧問として、一進会を裏から操縦していました。その黒竜会の重鎮である武田が起草した「合邦上奏文」案は、山縣有朋や桂太郎首相、それに初代朝鮮総督となる寺内正毅陸軍大臣に内示されて事前の了解を得ていたものです。それを一進会会長李容九の名で発表させたのです。
「韓国併合」が朝鮮人の要請を受けたといった議論が出てくる余地などありません。(吉)
〔参考〕吉岡吉典著『総点検・日本の戦争はなんだったか』(新日本出版社)
〔2007・12・22(土)〕