2008年1月5日(土)「しんぶん赤旗」
「指定暴力団」とは?
〈問い〉 「暴力団」という名前と実態を、ぜひ無くしたいと強く思っています。「指定暴力団」とは何なのか、「暴力団」がいつごろから生まれ、またなぜ、「暴力団」という名前がついたのか、知りたいです。(広島・一読者)
〈答え〉 「指定暴力団」とは、1992年3月施行の暴対法(暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律)にもとづいて、各都道府県公安委員会によって暴力団のなかでも反社会性の強い団体と指定された暴力団のこと。現在、21団体が指定されています。
「指定暴力団」の要件は、(1)暴力団が生計の維持、財産の形成または事業の遂行のための資金を得るため、当該暴力団の威力を構成員に利用させたり、構成員が利用することを容認することを実質上の目的としていること(2)暴力団の幹部または所属組員のうちに、犯罪経歴保有者が一定の割合以上いること(3)当該暴力団を代表する者またはその運営を支配する地位にある者の統制の下に階層的に構成された団体であること―となっています。
暴対法施行後、弱小暴力団は解散が相次いでいますが、逆に山口組、住吉会、稲川会の3団体で暴力団員総数の7割以上を占めるなど、寡占化が進んでいます。
「暴力団」という用語が用いられたのは戦後のことですが、その経過は定かではありません。しかし、警察庁刑事部の統計によれば、戦後まもないころ検挙された暴力団員の大半は博徒集団、的屋集団、愚連隊からなっており、こうした集団的、常習的に暴力的不法行為をおこなう団体を暴力団と呼ぶようになったようです。
なかでも歴史が古いのは博徒集団で、岩井弘融著『病理集団の構造』によれば、江戸時代初期には、博徒を獄門にかけて制圧を行ったにもかかわらず、中期には賭博はますます盛んになり、幕末期には国定忠治、黒駒勝蔵など著名な博徒が多く出ています。
大正時代には、時の政友会内閣がこうした博徒集団を懐柔し、労働争議のスト破りや反社会主義運動に利用するようになりました。原内閣の内相が世話役となって結成した「大日本国粋会」がそれです。「国粋保存」の美名の下に労働組合、農民組合、水平社などへの暴力的襲撃を行いました。
戦後も、1960年安保闘争のさい、右翼の児玉誉士夫が自民党の意を受けて暴力団の動員を図りました。暴力団がはびこったのは、自民党や財界が自らの支配体制を守るために事あるごとに暴力団を利用してきた結果です。(橋)
〔2008・1・5(土)〕