2008年2月21日(木)「しんぶん赤旗」

敗戦直前、拷問でたおれた古川友一とは?


 〈問い〉 小林多喜二の1928年1月1日の日記に寺田とともに登場する古川とはどういう人ですか。(東京・一読者)

 〈答え〉 小林多喜二は小樽高商時代の初期に虐げられ貧しい人々に共感の目を注いで小説を書いていました。その多喜二が北海道拓殖銀行に勤務しながら小樽の階級闘争の現実に直面します。それまでマルクス主義の周辺で模索していた多喜二が、その思想的動揺を振り切っていくきっかけとなったのは1927年秋に彼が小樽社会科学研究会に参加したことがあげられます。この社会科学研究会で中心的役割を果たしていたのが小樽きっての理論家といわれた古川友一(こがわ・ともいち)です。

 古川は1889年青森県弘前に生まれ、朝陽尋常小学校卒業後、樺太(現サハリン)を経て小樽市役所に勤務します。そして1926年労農党小樽支部結成に参加、ついで社会科学研究会を組織し、そこには当時の小樽の労働・農民運動の活動家や小樽高商の学生が参加していました。

 この社会科学研究会は、毎週火曜日に開かれることから「火曜会」と呼ばれていました。会合は主に古川の家で行われていました。テキストには「資本論解説」「金融資本論」「レーニンの弁証法」「共産党宣言」などが使われチューターは古川がつとめました。

 28年2月の第1回普通選挙では山本懸蔵候補を応援、2月中旬には多喜二とともに東倶知安方面遊説に参加します。多喜二の『東倶知安行』に登場する吉川は古川です。古川は、その直後の3・15弾圧で検挙、小樽署で拷問を受けます。『一九二八年三月十五日』の冒頭に登場するインテリの小川龍吉も古川友一がモデルです。失職した古川を髪結いをして支えた妻のキヨが、お恵のモデルです。

 その後、古川は労農派の立場で、ひそかに資本論研究会を続けますが小樽での活動の場を奪われ43年ごろ上京、小樽高商で多喜二と同期生であり当時同盟通信社にいた板垣武雄の尽力で43年、同盟通信社に勤務します。

 44年6月、御茶ノ水の自宅に突然踏み込んできた特高警察に連行され東京・府中刑務所に収監されます。小樽での資本論研究会活動が理由ですが、彼が反戦の立場をとり短波受信機を持っていたことからスパイ容疑をかけられたともいわれています。

 古川はその後、厳寒の小樽署に連行され激しい拷問をうけましたが節を曲げず不屈にたたかい、「脚気衝心」(脚気にともなう心筋障害)のため小樽病院で45年1月12日死去しました。享年56歳でした。(登)

〔2008・2・21(木)〕


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