2008年3月6日(木)「しんぶん赤旗」
反戦画家、柳瀬正夢はどんな人?
〈問い〉 戦前、無産者新聞の風刺画を描いた柳瀬正夢とはどんな人だったのですか?(東京・一読者)
〈答え〉 柳瀬正夢(やなせ・まさむ、1900年1月―45年5月)は、戦前のプロレタリア美術運動で特筆すべき画家であり漫画家でもあった人です。とくに、1925年9月非合法下にあった日本共産党の合法機関紙として創刊された「無産者新聞」への参加は柳瀬の活動の画期をなしており、同紙に掲載された作品は多くの人びとの脳裏に焼きついています。
柳瀬は、愛媛県松山市に生まれ、3歳で母をなくし、生計を助けながら絵を志し、15歳で院展に入選。19歳で上京、読売新聞に入社し漫画をかきながら本格的に絵を勉強していきます。
米騒動やロシア革命に刺激され、大正デモクラシーが高まりをみせたときで、文芸界でも民衆芸術論がさかんにおこなわれたころでした。柳瀬は、最先端をいく美術運動にはいつも加わり、21年には「種蒔く人」や未来派美術協会に参加、23年には「日本漫画会」の発起人になっています。
大きな転機は、25年創立の日本プロレタリア文芸連盟と、同年創刊の「無産者新聞」への参加でした。
「無産者新聞」では、政治漫画91作品、小説の挿絵47作品のほか、ポスター「全民衆の味方、無産者新聞を読め」(27年)や、治安維持法の死刑法への改悪時に、次の詩を投稿しています。
「今/ボウアツを抜けた/イキますますケンコウ/僕へのムチは/無新へのムチだ/無新即労働者農民の頭だ/我等の頭を/鉄火の中にきたえよ!/労働者と農民の/われらの/無産者新聞を守れ!」(28年6月21日)
28年創刊の「無産者グラフ」の編集長にもなっています。
「出兵に反対せよ!」(27年1月22日付)「川崎造船部三千の労働者立つ」(同12月20日付)、「野田へ!野田へ!野田争ギを応援しろ!」(同12月25日付)など、創作姿勢は常に反戦であり民衆を向いていました。
後年(30年)、「全国津々浦々の労働者農民から矢継ぎ早に寄せられていた実に具体的な緻密(ちみつ)な啓蒙と批判の言葉」「これらの執ような声にかきたてられ、編集の厳密なろ過と淘汰(とうた)に打ちたたかれて、ヒ弱い小ブルの持っていた筆がプロレタリアート自身の持筆へと頑強に仕上げられていった」と回想しています。
こうしてみずからを鍛え、28年には全日本無産者芸術連盟(ナップ)結成に参加、機関紙「戦旗」の表紙や挿絵を描き、29年から「ねじ釘(くぎ)」のサインを使い始め、31年10月には、日本共産党に入党します。
32年12月、特高に逮捕され残虐な拷問を受け、翌年12月に起訴猶予で釈放されますが、政治漫画を描く自由を失います。その後もドイツの画家ゲオルゲ・グロスの展示会を銀座で開いて反体制的姿勢を示しました。戦後の活躍が期待されましたが、終戦直前の45年5月25日夜、新宿駅の空襲で焼夷(しょうい)弾をうけ、45歳の生涯を閉じました。(喜)
〈参考〉『歴史評論No.520反戦と抵抗の画家、柳瀬正夢』
〔2008・3・6(木)〕