2008年3月19日(水)「しんぶん赤旗」
皇国史観とは?
〈問い〉 貴紙2月10、11日「神国の誕生―再考・建国の記念日」でのべていた皇国史観はいつごろだれが体系化したイデオロギーなのですか?(福島・一読者)
〈答え〉 「皇国史観」は、その概念を、いつの時代にまでさかのぼって定義するかによって成立時期が異なります。源泉が古事記、日本書紀にあるのは確かですが、「史観」としていつ確立されたかについてはさまざまな見方があります。また、「だれが」という点では、特定の個人がひとりで生み出したものではないため「だれが」と確定するのは不可能です。政府から民間人まで、さまざまな思惑が絡み合いながら育成され、結果的に太平洋戦争の時期にピークを迎えた「史観」としかいいようのない面があります。そして、「体系化」についてはそもそも「皇国史観」が体系的なものでなく、戦後この言葉がよく使われるようになってからも、かなりあいまいなレッテルとして機能してきたことが、最近の研究で指摘されるようになっているほどに、もともと「体系」的とは言い難い概念です。
こうした、あいまいさ自体が特徴ともいえるのが「皇国史観」ですが、見解が分かれていることを前提にしつつも、大づかみ歴史をたどると以下のようになります。
「皇国史観」は、江戸時代以前から複数の源流をもちながら存在していた思想を下敷きに、明治政府の指導者たちが天皇を中心とした中央集権的国家づくりをめざすなかでその基礎が形成されました。大日本帝国憲法や教育勅語によって天皇の神格化が制度化されるなかで教育面でもその普及が強化され、国定教科書でもとりあげられて幼少期から「皇国史観」が植え付けられました。
「皇国史観」の強化時期としては、国家神道にもとづく国民教化運動の中心を担うため教部省が設置された1872年なども重要な節目と見ることができますが、1930年代なかばに「国体」をはっきりさせようとする「国体明徴運動」が起こったように、「国体」の概念自体があいまいであるという認識や矛盾が右翼勢力のなかにも長らく存在していました。しかし戦時体制が強化されていくなかで日本の領土拡張政策を正当化する論拠として機能した「皇国史観」は、時を追うごとに帝国日本の精神的支柱としての役割が強まり、37年の「国体の本義」の発行や「国民精神総動員運動」などをへて、「国民的」なものになっていきました。その理論化には歴史学者の平泉澄が大きな役割を果たしました。(金)
〔2008・3・19(水)〕