2008年4月9日(水)「しんぶん赤旗」
治維法違反で検挙、自殺した公爵の娘とは?
〈問い〉 戦前、華族の子弟にも日本共産党支持者がいたのですか? 「赤化華族」事件と岩倉靖子について知りたいです。(長野・一読者)
〈答え〉 戦前、戦争反対、主権在民を主張した日本共産党と科学的社会主義の理論は、いわゆる無産階級にとどまらず社会各層の人びとの心をとらえました。1932年には、警察も「最近に発覚せるシンパ(支持者のこと)ハ官吏、大学教授、弁護士、文士、新聞記者、学者、銀行会社員、名家富豪の子弟等極めて広汎ニ亘り」(同年12月の警保局保安課「日本共産党ノ運動概要」)と記したほどでした。「名家富豪の子弟」には、天皇の「藩屏」(はんぺい=帝室を守護する者の意味)である華族もふくまれていました。
33年の「華族赤化」事件とは1月18日の八条隆孟(当時27歳、父は子爵)の検挙に始まり、3月下旬、森俊守(24歳、父は旧三日月藩主で子爵)、久我通武(父は男爵、祖父は侯爵)、山口定男(23歳、祖父は明治天皇の侍従長)、上村邦之丞(20歳、海軍大将の孫)、岩倉靖子(20歳、後述)、亀井茲健(22歳、父は昭和天皇の侍従で伯爵)、小倉公宗(23歳、父は子爵)、松平定光(23歳、父は旧桑名藩主で子爵)、さらに9月に中溝三郎(25歳、本人が男爵)の10人が治安維持法違反で検挙された事件です。(この事件とは別に、新人会に参加した山名義鶴、大河内信威、黒田孝雄、京都学連事件で検挙された石田英一郎、築地小劇場を創設した土方与志、宮崎竜介の妻・柳原白蓮らの華族が知られています)
八条らは、東京帝大の学習院出身者でつくる「目白会」の中で後輩たちと読書会をひらき、「無産者新聞」を普及、数十人を組織していたといわれます。天皇制政府は衝撃をうけ、改心した者には温情で、そうでない者には厳罰の方針をとり、八条、森、岩倉の3人を起訴、他はあっさりと反省手記を書いたということで釈放しました。
女性でただ一人検挙された岩倉靖子は、明治維新の立役者で華族でも最上流の公爵となった岩倉具視(ともみ)のひ孫です。靖子は「人夫などが汗水たらして働いている姿を見て帰っては可哀そうだと涙ぐみ、同族や富豪のぜいたくぶりを見ては、どうして世の中に等差がひどいのかと思い沈む」少女でした。
女子学習院から日本女子大にすすみ、いとこの夫・横田雄俊(大審院院長・秀雄の4男、長男は戦後の最高裁長官・正俊)の影響で、32年3月、社交クラブ「五月会」をつくり上流中流階級の女性に日本共産党の影響を広げようとします。
検挙後、「肉親の情」「家門の名誉」で迫る取り調べにも、靖子は仲間についての具体的な供述は拒否し抵抗したため、他の検挙者と違って市ケ谷刑務所に収監されました。そして、保釈直後の33年12月21日早朝、自宅で自殺しました。遺書には「説明もできぬこの心持を善い方に解釈して下さいませ」と鉛筆でしたためてありました。人間の良心を乱暴にふみにじり、屈服させようとした天皇制権力のむごさは今日もなお糾弾されなければなりません。(喜)
〈参考〉浅見雅男『公爵家の娘・岩倉靖子とある時代』中公文庫、荻野冨士夫『昭和天皇と治安体制』新日本出版社
〔2008・4・9(水)〕