2008年4月26日(土)「しんぶん赤旗」
戦前、予算に占める軍事費の割合は?
〈問い〉 戦前、とくに太平洋戦争の時代、国家予算に占める軍事費の割合はどれくらいだったのですか?(東京・一読者)
〈答え〉 明治以降、日本の財政をみると、歳出の中で軍事費(注)の占める割合はきわめて高く、どんなに低い時でも3割に近く、高い時には9割に近い比重を占めました。
とくに軍事費が大きくふえたのは、日清戦争、日露戦争、太平洋戦争(日中戦争を含めて)の時期で、そのなかでも太平洋戦争の時期は他とは比較にならないものでした。
表は、戦前の軍事費を研究した労作『昭和財政史IV・臨時軍事費』(大蔵省昭和財政史編集室編)の著者、宇佐美誠次郎氏が作成したものから、昭和期だけを抜粋したものです。
これをみると、とくに盧溝橋事件で日中戦争が拡大した1937年(昭和12年)に軍事費は激増し、以後終戦まで軍事費は国家予算の7割台から9割近くにまで拡大しています。その財源は、租税の重課だけではまかないきれず、ほとんど全部が各種公債に求められました。公債は年を追って累積し、それによって、インフレーションがすすみ、国民生活を圧迫しました。
なぜ、戦争予算が際限なくふくれあがったのか―それは、天皇の大権・統帥権のもとで軍部が思うままに予算を要求できる仕組みがあったからです。とくに、太平洋戦争を遂行していくに当たって、臨時軍事費特別会計(臨軍会計)制度や会計法上の戦時諸特例が統帥権のもとで次々に制度化され、財政力を考慮することなしに、ばく大な戦費支出を可能にしました。
37年盧溝橋事件がぼっ発すると政府はただちに戦争終了までを一会計年度とする臨軍会計を設けました。37年9月〜46年2月までの8年半におよんだ臨軍会計は、一般会計から切り離され、膨張につぐ膨張をつづけました。臨軍費の内容は“軍事機密”とされ、会計検査院の検査もなく、議会の審議も実質的におこなわれずに無条件で通過・成立しました。「聖戦完遂」を錦の御旗(みはた)に「臨軍費さまのお通り」だったのです。
戦後の財政法第4条(国債発行禁止)はこの歴史をふまえたものです。悲劇をくりかえさせてはなりません。(喜)
注 ここでは直接軍事費(=陸海軍省費+臨時軍事費+徴兵費)の意。軍事費には、こうした狭義の軍事費のほか、広義の軍事費、予算に現れない軍事費がある。軍人恩給費、軍事技術開発につながる科学研究費、軍事利用できる道路建設費等々、どの範囲までをふくめるかによって計算は違ってくる。
〔2008・4・26(土)〕
|