2008年5月1日(木)「しんぶん赤旗」
「皇居前広場」が使われなくなったのは?
〈問い〉 戦後最初のころのメーデーは「皇居前広場」で行われたと聞いています。その後、使わなくなったのはなぜですか。(埼玉・一読者)
〈答え〉 皇居前広場は戦後、国が管轄する「国民公園」の一つとなり、厚生省が管理していました。1946年、50万人が参加した戦後初の中央メーデーで初めて使われて以来、50年まで毎年メーデー会場となりました。
また、皇居前広場は、生活擁護、平和と民主主義を求める国民的なたたかいの舞台として、各種の集会が約4年間で40回も開かれ、「人民広場」という名前で呼ばれるほどでした。
しかし、50年6月2日、米占領軍の要求により、警視庁が「当分の間」東京都内の一切の集会・デモを禁止、51年の第22回中央メーデーは、占領軍命令で皇居前広場の使用が禁止されました。
52年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効し、日本は形のうえで「独立」します。第23回中央メーデー主催者は、今年こそ皇居前広場を使おうと申請しましたが、政府は不許可を通告してきましたので、主催者は不許可処分の取り消しを求めて行政訴訟をおこし、東京地方裁判所は、政府が皇居前広場の使用を禁止したのは「集会の自由を保障した憲法第21条の規定に違反する」として、不許可処分を取り消す判決を、ちょうど「独立」の日にあたる4月28日に言い渡したのです。
ところが、政府は判決に従わず控訴したため、第23回メーデーは明治神宮外苑・絵画館前広場で行わざるをえませんでした。
メーデー事件は、デモ行進の解散地点である日比谷公園に着いた参加者が、政府の不当な使用禁止に対して抗議の意思をあらわすため、自発的にすぐ隣にある「人民広場」に平穏に集まったところ、治安立法の口実に「騒擾(そうじょう)事件」を企図していた警視庁警官隊が一斉に警棒で殴りかかり、催涙ガス弾、けん銃弾を発射するなど、死者2人、1500人の重軽傷者を出した事件です。このとき1232人が逮捕され、261人が「騒擾罪」として起訴されましたが、72年11月、東京高裁は騒擾罪全員無罪を言い渡し、確定しています。
皇居前広場は現在は環境省が管理していますが、許可を得れば集会ができるという管理規則はそのまま残っています。いま中央メーデーは代々木公園で開かれており、皇居前広場の使用申し込みがされていないのは、環境の変化などの諸条件を考慮しての主催者の判断だと思われます。(光)
〔2008・5・1(木)〕