2008年5月15日(木)「しんぶん赤旗」
5・15事件とは?
〈問い〉1932年(昭和7年)にあった5・15事件とは? 当時、日本共産党はどういう見方をしたのですか?(東京・一読者)
〈答え〉76年前のきょう起きた5・15事件は、右翼、海軍青年将校らが起こしたクーデター・テロ事件です。
当時は、29年10月24日のニューヨーク・ウォール街の株式大暴落で始まった恐慌が日本にも波及し、大量失業と農村窮乏が深刻化し、労働争議・小作争議が激増。天皇制政府は人民の苦しみをよそに、治安維持法による暴圧を強める一方、財閥を利するだけの恐慌対策をとるなどしたために、国民の間には政党不信と反財閥感情が広がっていました。こうしたなかで、右翼・軍部は、危機的情勢を対外侵略と国内体制のファッショ化によって打開しようと、クーデターを相次ぎ計画(31年の3月事件、10月事件、いずれも未遂)、31年9月には関東軍が満州事変を引き起こし、32年2月には血盟団事件(右翼青年が前蔵相・井上準之助と三井財閥総帥・団琢磨をピストルで暗殺)を起こしていました。こうした流れのなかで「5・15事件」が起こされたのです。
この日、海軍将校、陸軍士官学校生徒の18人が4班に分かれ、首相官邸、警視庁、政友会本部などを襲います。首相官邸では「話せばわかる」と制止する犬養毅首相の言葉を聞かず「問答無用」と言って射殺。さらに、これに呼応して水戸市外の愛郷塾の橘孝三郎と塾生19人が「農民決死隊」をつくり、田端、鬼怒川、亀戸ほかの変電所を襲うなどしました。変電所を破壊して東京を暗黒にして戒厳令がしかれるきっかけにしようとしたのです。結局、決起は犬養首相1人を殺しただけで、国家改造クーデターとしては失敗しますが、及ぼした衝撃は絶大でした。
軍部は事件を利用して政党内閣の排斥を迫り、海軍大将・朝鮮総督だった斎藤実を首班とする「挙国一致内閣」が成立し、いわゆる「政党内閣制」は終止符をうちました。農民決死隊の存在は農村窮乏の重大性をきわだたせ、減刑運動が全国に展開され、ファッショ的風潮をかきたてました。事件後の彼らにたいする軍法会議や裁判の判決は、橘の無期懲役が一番重く他は禁固15〜4年と比較的軽く、いずれも恩赦で途中釈放されます。この処罰の軽さが4年後の2・26事件の誘因になります。
事件は、一年後になってようやく、公表されます。この記事解禁にさいして、33年5月21日付「赤旗」(現「しんぶん赤旗」)は、「天皇制の戦争とテロルによる反革命的活路か、我党の米と土地と自由のための 戦争と警察的天皇制反対のための 労働者農民のための人民革命か」という見出しで、1面トップで論評を掲げました。論評は、荒木陸相の「この純真無垢なる憂国の志にそうべく我々は挙国一致全力をつくし」と、暴動者をほめちぎっていることをあげて、“政党、財閥、特権階級の打倒をとなえた軍部ファシストたちが、天皇制のあらたな支柱としてファシズム運動を助成し、これを突撃隊にして天皇主義的軍事独裁政治を実現し、大規模な軍事的冒険への体制をかためようとしている支配階級の陰謀である”と糾弾しました。(喜)
〔2008・5・15(木)〕