2008年5月28日(水)「しんぶん赤旗」

戦時下の反戦・抵抗 大阪商大事件とは?


 〈問い〉 戦時下の大阪商大事件とは?(大阪・一読者)

 〈答え〉 大阪商科大学(現・大阪市立大学)事件とは、1943年、太平洋戦争中のきびしい思想取り締まりのもとで、反戦・抵抗の研究会を組織した教員と学生に加えられた弾圧です。影響を恐れた当局が厳秘としたため、あまり知られていませんが、広がりをもった戦時下の抵抗運動として特筆すべきものです。弾圧によって、獄死3人、発狂3人、釈放後の病死者数人をはじめ、少なくない学生が学業半ばにして危険な戦場に送られました。

 大阪商大には当時、京大滝川事件で抗議の辞職をした末川博、恒藤恭、佐々木惣一という3人の法学者が移籍し、経済学では、福井孝治、藤田敬三、堀経夫、名和統一など河上肇の弟子がおり、上林貞治郎、岡本博之、安倍隆一などの『資本論』を基調とした講義やゼミナールもおこなわれるという、戦時下ではまれな、自由な雰囲気が残されていました。しかし、42年(昭和17年)に入ると、自由な研究も許されなくなっていきます。同年4月、上林助教授と学生数人が帝国主義戦争反対と科学的社会主義研究のための研究会をつくります。それに参加した、林直道・大阪市大名誉教授は、次のように語ります。

 「ちょうど、大学当局が、戦争を謳歌(おうか)するような講義への聴講者が少ないため、出席点検制度導入を企てたときでした。出席が足りないと試験を受けられず、徴兵猶予を取り消されるため、反対の大運動が起きます。結局、張り出した名簿にハンコを押せば出席したと見なすということで大学側が譲歩。戦争中でもやればできるのだと、学生たちはみんな確信しました。その直後、河田嗣郎学長が死去。河上肇が河田の親友ということで特別に許されて葬儀に参列しました。伝説中の人物、河上の姿を見て私たち学生は感激し、戦争反対の運動と社会正義の実現のために馬力をかけようと誓い合いました。これ以後、非公然の社会科学研究会が燎原(りょうげん)の火のように広がりました。研究会は目立たないように3人以内とし、灯火管制下、電灯を隠しながら『資本論』を読みました」

 しかし、特高警察が察知、43年3月から学徒総動員直後の12月までに、研究会には出なかった人も含めて戦争に批判的な学生約100人が検挙され、教員4人(上林、安倍、名和、立野保男)、研究員嘱託1人(坂井豊一)、卒業生8人、学生33人の合計46人が起訴されます。逮捕はされませんでしたが、豊崎稔、飯田繁、木村和三郎の3教授が辞職させられました。

 林さんと、その親友の森竜実や平井都士夫、一ノ瀬秀文らも起訴された中にいました。森は食事を減らされ衰弱、ついに22歳で尊い一生を閉じます。林さんは「私も死の一歩手前までいったが、生きのびることができた。しかし、死んだ彼らはかえってこない。私の戦後の経済学研究は、彼らが生きていればどうしたろうという思いでやってきた」と語っています。(喜)

 〔2008・5・28(水)〕


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