2008年6月26日(木)「しんぶん赤旗」
葉山嘉樹とはどんな人?
〈問い〉 毎日新聞6月3日付の『蟹工船』の記事で葉山嘉樹という名前がでていました。どんな人ですか?(三重・一読者)
〈答え〉 葉山嘉樹は、若き日の小林多喜二に大きな影響を与えたプロレタリア文学作家です。
葉山は、1894(明治27)年、福岡県豊津(現みやこ町)に生まれ、早大高等予科にすすみますが、学費未納で中退、下級船員など職業を転々。戸畑の明治専門学校につとめ、待遇改善交渉をしたり、名古屋セメント会社では労災死した仲間の見舞金増額を要求し首にされます。1921年「名古屋新聞」の記者になり、労働運動に深くかかわるようになります。日本共産党に指導された労働組合活動家の組織「レフト」に参加、23年「名古屋共産党事件」で検挙されます。
獄中で「資本論」を読み、「淫売婦」や「海に生くる人々」の原稿を書きます。一方で、葉山は獄中で陳情書を書き、労働運動から身を引く決意をしていました。出獄後、妻子の行方不明を知り、捜しまわった末、単身木曽の水力発電所の工事場にいくのです。そこで「セメント樽の中の手紙」を脱稿します。
葉山の「淫売婦」や「セメント樽の中の手紙」が発表されると、たちまち有力新人として注目され、既成文壇からも認められます。26年3月『文芸戦線』同人に推薦されました。労働運動から転身した葉山は、東京にうつり、作家生活に入り、11月『海に生くる人々』を発刊、この長編もプロレタリア文学の傑作として注目を浴びました。
プロレタリア文学運動は、27年の日本プロレタリア芸術連盟の分裂以後、28年政治的には日本共産党を支持するナップ(全日本無産者芸術連盟、機関誌『戦旗』)が結成されると、ナップと「労農派」支持の労農芸術家連盟(労芸、機関誌『文芸戦線』・『文戦』)との対立が固定化していきます。葉山は終始労芸派に属し無産大衆党の中央執行委員にもなっていました。
しかし、小林多喜二は、「今、不幸にして、お互(たがい)に、政治上の立場を異にしていますが、…私は、貴方の優れた作品によって、『胸』から、生き返った…、云(い)うならば、私を本当に育ててくれた作品は『戦旗』の人達のどの作品でもなくて、実に貴方の作品…でした」(29・1・15、全集第7巻)と書き送るなど、葉山の文学を高く評価しています。
葉山は戦時色が深まるなか、木曽渓谷に転居、農耕生活に入りますが、終戦末期には国策に従い「満州」開拓団員として渡満、45年10月、帰国途中に病死しました。(喜)
〔2008・6・26(木)〕