2008年7月3日(木)「しんぶん赤旗」

1948年の済州島事件とは?


 〈問い〉 1948年に起きた韓国の済州島4・3事件とは?(大阪・一読者)

 〈答え〉 1948年の済州島(チェジュド)事件とは、米軍占領下の朝鮮半島南部(韓国)だけでの総選挙に反対する済州島民にたいして、軍・警察が弾圧し、3万人ともいわれる島民を虐殺した事件です。難を逃れて日本に渡った島民も数千人といわれます。

 45年8月15日、日本の植民地支配から解放された朝鮮では、すぐに建国準備委員会(建準)が発足し、人民委員会が全国でつくられていきます。しかし、ソ連軍に遅れて占領統治をスタートさせた米軍は、人民委員会を左翼・共産主義者の組織と決めつけ、弾圧していきます。なかでも済州島は、人民委員会が島民の強い支持を得、47年の「3・1独立運動」記念式典に島の人口約30万人のうち3分の1が参加したほどでした。このとき、デモ参加者6人が警官の発砲で死亡、抗議のゼネストが起こり、これを契機に、右翼青年団が島に送り込まれ、47年春以降、島には白色テロが吹き荒れました。島民は追いつめられ、テロから身を守るために、48年4月3日、ついに「武装自衛隊」をつくり、警察署や右翼事務所などを襲撃します。衝突は4月28日に武装隊と国防警備隊との間で休戦協定が結ばれ収束するかに思われました。しかし、反共国家成立を急ぐ米軍政は、48年5月10日実施の南朝鮮単独政府樹立のための選挙が島の2選挙区で投票率50%に満たず無効となると、警察、国防警備隊(のちの韓国軍)、右翼の増援部隊を投入し、「焦土化作戦」と呼ばれる殺りくを実行したのです。

 事件は、長い間、「共産暴動」とされ、口にすることもできませんでしたが、1980年代の韓国の民主化のなかで、真相解明運動が展開され、金大中(キム・デジュン)政権下の98年12月、「済州島4・3事件真相究明及び犠牲者名誉回復に関する特別法」が成立。「真相究明及び犠牲者名誉回復委員会」の4年に及ぶ調査を経て03年、“事件は『国家犯罪』で、47年から鎮圧作戦が終わる54年までに2万5千〜3万人の島民が犠牲になった”という「報告書」がだされ、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が島を訪れ、謝罪しました。ことしの4月3日には、同島の「4・3平和公園」で「60周年追悼慰霊祭」が行われ、出席した韓昇洙(ハン・スンス)首相は「政府は、事件の真実を歴史の教訓とするのに全力をつくす」と表明しました。

 この悲劇的事件は、日本帝国主義が犯した朝鮮植民地化とも密接にかかわっており、傍観することはできません。(喜)

〔2008・7・3(木)〕


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