2008年8月7日(木)「しんぶん赤旗」

戦没した野球人はどんな人たち?


 〈問い〉 東京ドームの一角に、戦没野球人の名前が刻まれた「鎮魂の碑」が建てられていると聞きました。戦没した野球人とはどんな人をさしているのですか?(愛知県・一読者)

 〈答え〉 戦没した野球人には、プロ選手もいれば、学徒出陣などでの学生野球選手もいます。その戦没総数はいまだにはっきりしないといわれています。東京ドームの歓声と球音がこだまするドームの南東、大通りに面して一段高い植え込みの中にあるのは、プロ野球選手の名前が全員刻まれた「鎮魂の碑」です。1981年4月に野球関係者有志の手で建立されました。

 そこには、2基の石碑があり、1基には「鎮魂の碑」と大書され、69人の名前が刻まれ、もう1基は「追憶」の一文です。

 69人のなかには、戦前の不世出の大投手、東京巨人軍の沢村栄治の名前が刻まれています。沢村投手は、プロ野球草創期にアメリカ遠征や巨人軍で活躍し、1936年(昭和11年)の大阪タイガース戦でプロ野球初のノーヒットノーランを達成、沢村賞としていまも語り継がれている大投手です。

 戦争が太平洋・東南アジアへと拡大した41年から42年にかけて、プロ野球選手の出征が急増します。沢村投手は3度の召集を受け、44年12月に輸送船で南方戦線に向かう途中、アメリカ潜水艦に撃沈され、27歳の若さで東シナ海に散りました。

 川上哲治とともに熊本工業から巨人軍に入団して、強肩にして快速といわれた吉原正喜捕手は、44年10月、ビルマ戦線で戦死、25歳でした。

 戦前を代表する強打者で松山商業の影浦将(まさる)は、高校野球で32年の春に優勝、夏に準優勝して、立教大、大阪タイガースと活躍しました。巨人軍との対戦では、沢村投手からホームランを打っていますが、45年5月、フィリピン・カラングラ島で戦死、30歳でした。

 終戦記念日に首相や大臣が靖国神社参拝を行って問題になりますが、そこにある遊就館には、名古屋軍の投手で、特攻隊で戦死した石丸進一が、まるで「英霊」の象徴のように陳列されています。

 侵略戦争は、優秀なプロ野球選手たちの命を奪いました。8月、この戦没選手たちの無念の思いをしのび、ふたたびその悲劇をくり返さない平和な日本にしたいものです。(鳥)

〔2008・8・7(木)〕


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