2008年8月21日(木)「しんぶん赤旗」
「白虹事件」というのは?
〈問い〉戦前、言論機関が権力に屈服していく端緒となった「白虹(はっこう)事件」とはどんな事件ですか。(東京・一読者)
〈答え〉「白虹事件」とは、1918年(大正7年)、「大阪朝日」(現朝日新聞)の記事のなかに「白虹日を貫けり」という一句があったことを口実におこなわれた新聞にたいする言論弾圧事件です。
1918年、日本は寺内正毅(まさたけ)内閣のもとで、ソビエト政権転覆をめざし、シベリアに出兵、国内では、軍用米需要を見越した買い占めによって米価は暴騰、社会不安は広がります。多くの新聞は、国内の物価高騰に対処するよりも出兵を強行した政府を批判しました。これにたいして、政府は7月30日、「大阪朝日」をはじめ60紙の発売を禁止、出兵反対の言論封殺をはかりました。政府のシベリア出兵宣言(8月2日)の翌3日、富山県の女性たちの一揆=「米騒動」がぼっ発すると、漁村の小さな動きが短期間に全国に広がったのは新聞報道のせいだとして、「米騒動」の報道をいっさい禁止にします。大阪、名古屋、東京では記者大会がひらかれ、言論擁護・内閣退陣を要求。ついに寺内内閣は総辞職、原敬(政友会)内閣がつくられます。この間に、白虹事件が起きます。
8月25日、大阪で86社166人が出席する関西新聞社通信社大会が開かれ、寺内内閣弾劾を決議します。翌26日付「大阪朝日」夕刊の記事に「白虹日を貫けり」(白い虹が太陽を貫くことで、中国で昔、兵乱のある凶兆とされた)という言葉がありました。寺内内閣は、これにいいがかりをつけ、君主にたいする乱を意味して社会不安をあおるとして、即日発禁処分にし、新聞紙法違反に問い、同年12月の判決で、執筆者などが有罪となり、編集幹部が退社に追い込まれました。事件後、「大阪朝日」の村山龍平社長が右翼に襲われ、「国賊」と記した布切れを結ばれ、石灯籠(いしどうろう)にしばりつけられる事件も起きます。
これを機に、権力に腰の引けた報道となっていきます。
判決が出る3日前、「大阪朝日」は「天壌無窮(てんじょうむきゅう)(永遠につづくことの意味)の皇基を護り」(1918年12月1日付)と、天皇への忠誠を誓う長文の宣言を発表。「我社起訴事件に関しては、只管(ひたすら)謹慎しつゝ天皇の御名に於(おい)てせらるゝ公明の裁判を待つあるのみ」として、全面屈服、恭順の意を表明しました。
商業新聞は、もともと天皇制礼賛の立場でしたが、「白虹事件」は、日本のマスメディアが天皇制の専制政治と軍国主義に追随してゆく大きな転機となったといえます。(喜)
〔2008・8・21(木)〕