2008年10月8日(水)「しんぶん赤旗」
経済時評
米国発の金融危機(1)
なぜ危機が起こったのか
世界的な株価下落が続いています。
米国の「金融安定化」法は成立しましたが、金融不安は、いちだんと深まる様相です。「金融安定化」法によって、金融機関の不良債権を買い取り、一時的に救済したとしても、巨額な損失を抱えた金融機関の資本不足を解決することにはなりません。
しかも、公的資金投入のツケはそっくり国家財政に回ってきます。ある試算では、今後の政府の資金負担の総額は一兆八千億ドル(約百九十兆円)にまで膨らむ可能性があるといわれます。「金融安定化」どころか、ドル暴落の不安をますます高めざるをえません。
米国発の金融危機は、これからどうなるのか? ドル暴落は? 実体経済の世界恐慌との関係は? 日本はどうすべきか? などなど、一回の時評ではとても論じきれません。何回かにわけてとりあげてみたいと思います。
公的規制を徹底的に排除した「金融モデル」
まず、今回の米国発の金融危機はなぜ起こったのか、その深部の原因をどうつかむか、という問題です。
マスメディアに登場する証券アナリストの解説では、米国の住宅価格が下げ止まれば、金融危機も解決すると言います。しかし、それほど単純な話ではありません。
今回の金融危機は、きわめて精緻(せいち)な金融工学=「新自由主義」的金融理論にもとづく米国型「金融モデル」のもとで起こりました。
米国型「金融モデル」の特徴は、最先端の金融技術を駆使して、金利や為替のデリバティブ(金融派生商品)取引、不動産や金融債権の証券化、資本市場からの資金調達によるM&A(企業の買収・合併)など、投資銀行業務(日本の証券会社の業務)を中心に巨額な利益を得てきました。
米国型「金融モデル」のためには、公的規制を徹底的に撤廃することが必要でした。
「過剰な規制は、金融サービスの生産コストを増大させる。今や撤廃されたグラス・スティーガル法は、その実例である」(注1) |
こうした金融の規制撤廃の結果、金融業の主導権は、預金を集めて企業に融資する商業銀行から投資銀行に移りました。「預金から投資へ」のスローガンのもとで、一般庶民の資金も資本市場へ巻き込まれてきました。
米国型「金融モデル」の象徴だった投資銀行が次つぎと破たんしたことは、今回の金融危機の性格を鮮明に示しています。
新自由主義的資本蓄積と信用膨張の破たん
米国型「金融モデル」のもとでの米国経済の繁栄は、「金融の自由化」と市場原理主義の経済政策を世界に広げて、基軸通貨ドルの特権によってアメリカに資金を集中し、ドル高、株高を続けることで成り立っていました。
米国の政府・金融界は、金融危機の直前まで、米国型「金融モデル」は、「イノベーションと経済成長を促進し」、「米国経済の安定性を高めてきた」と礼賛し、その「グローバルな比較優位性」を誇ってきました。(注2)
たしかに、米国型「金融モデル」のもとでICT革命(情報通信技術革命)が発展しました。マイクロソフト、インテル、グーグルなどICT企業の急成長は、リスクをともなうベンチャー企業への資金の提供という意味で、資本市場の活性化が一定の役割をはたしたといってもよいでしょう。
しかし、ICT革命は、利潤第一主義、効率最優先の新自由主義的資本蓄積の手段となり、経済社会に大きなゆがみをもたらしました。
グローバルな規模でも、各国の国内でも、富が大企業、大金持ちに集中し、それが巨額な金融資産を形成しました。それらの膨大な金融資産の多くは生産資本に再投資されないまま「過剰な貨幣資本」となり、ヘッジファンドや投資銀行の手で投機マネーとして、あるときは株式バブルを、あるときは土地・住宅バブルを、あるときは国際商品(原油や穀物)バブルを、引き起こすようになりました。
米国の投資銀行が主導した「金融資産の証券化」は、資本市場の流動性を速める金融技術の革新でしたが、現実には、世界の過剰貨幣資本の投資先として、不良債権を世界中にばらまく“金融的術策”となりました。
今回の金融危機の直接のきっかけはサブプライムローン(低信用者向けの住宅ローン)の破たんでした。それは米国の「住宅ローンの証券化」が、グローバルに膨張した信用連鎖のもっとも弱い環になっていたからです。
グローバルな規模での新自由主義的な資本蓄積の矛盾―一方に膨大なワーキングプアと貧困、他方に巨額な金融資産(過剰な貨幣資本)の累積という矛盾―が限界にきて、膨張した信用の連鎖がはじけたとき、それが「百年に一度の金融危機」(グリーンスパン前FRB=米連邦準備制度理事会=議長)のはじまりでした。(友寄英隆)
(注1)(注2)『二〇〇六年大統領経済諮問委員会年次報告』(邦訳『米国経済白書2006』毎日新聞社)、一七八ページ、一七〇ページ。一九三三年のグラス・スティーガル法は、銀行が商業銀行業と投資銀行業を同一行内でおこなうことを禁じていた。