2008年11月8日(土)「しんぶん赤旗」
張作霖爆殺事件とは?
〈問い〉 田母神前航空幕僚長が「コミンテルンの仕業」と言った「張作霖(ちょうさくりん)列車爆破事件」とはどんな事件だったのですか?(長野・一読者)
〈答え〉 1928(昭和3)年6月4日午前5時半、「満州」軍閥の首領・張作霖を乗せた特別列車が奉天(瀋陽)駅の手前で爆破されました。張は、血みどろになり4時間後、奉天城内で死にました。当時は、蒋介石のひきいる国民革命軍が、黄河を渡り、北京をにぎる張と決戦する寸前にありました。張は日本政府のつよい勧告で、一時北へ逃げることにして、出発したところでした。
事件がおこると、日本の陸軍省はただちに、「犯人は国民政府軍の便衣隊(=平服のかく乱部隊のこと)である」と言明。一方、日本国内では、報道は禁止され、「満州某重大事件」としか、知らされませんでした。しかし、戦後公表された多くの証言、史料で、謀略の実行者と経過はすでに明確です。「コミンテルンの仕業」などとは、まったくの作り話です。
たとえば、東京裁判関係資料から発見された「厳秘 内奏写」(粟屋憲太郎著『東京裁判論』大月書店所収)は、12月24日の田中義一首相の天皇への上奏であると判断されるものですが、そこには「矢張(やはり)関東軍参謀河本大佐が単独の発意にて、其計画の下に少数の人員を使用して行いしもの」と明記されています。河本自身も戦後、収容された中国の戦犯管理所の尋問に、事件は関東軍司令官の意図をくんでやったと供述しています。
では、関東軍は、なぜ張作霖を爆殺したのでしょうか。
もともと張は、馬賊出身の軍閥で、関東軍に助けられて勢力をのばします。しかし、15万人の兵力をもち華北にまで進出すると、米英に接近し、日本の利権を脅かすようになり、じゃまな存在になってきていたのです。
事件は河本の独断ではなく、陸軍上層部や久原房之助(久原財閥の総帥)、吉田茂(当時は奉天総領事)などを含む張作霖排除の政治的動向に沿うものでした。田中首相は、事件が関東軍の謀略であることをほどなく確認しますが、真相隠蔽(いんぺい)をはかる陸軍と閣僚・重臣の意向をうけて、昭和天皇に「この問題はうやむやに葬りたい」旨を上奏、天皇から「それでは話が違うではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で」(『昭和天皇独白録』)いわれ、内閣総辞職に追い込まれました。事件は、その後の柳条湖鉄道爆破事件(31年)の開戦謀略につながり、満州事変からアジア・太平洋戦争へと、破滅への道の最初の一歩となりました。(喜)
〈参考〉大江志乃夫『張作霖爆殺』中公新書
〔2008・11・8(土)〕