2008年12月3日(水)「しんぶん赤旗」
日本軍がおこなった「三光作戦」とは?
〈問い〉 「『三光』とは中国語なのだから、三光作戦など、そもそも存在しない」という人がいます。実際はどうだったのですか?(東京・一読者)
〈答え〉 戦前、中国への侵略戦争が長期持久戦に入ると、日本軍は華北において中国軍がおさえていた地域、とくに中国共産党が解放した抗日根拠地に対して掃討作戦を実施しました。
万里の長城の南北500キロ以上に「無人区」を設定、村を消滅させていったのです。そのあまりの残虐さから、中国では、これらを、焼光(焼き尽くし)、殺光(殺し尽くし)、搶光(奪い尽くし)した「三光作戦」と名付け、呼んだのです。日本軍はこれを「燼滅(じんめつ)掃討(燃えかすがなくなるまで徹底的に滅ぼす)作戦」と呼びました。日本軍の作戦名でないから、掃討作戦がなかったなどとは論外です。
中国側は37〜45年の8年に7つの根拠地が受けた被害だけで「318万人が殺され、276万人が連れ去られ、1952万軒の家屋が焼かれ、5745万トンの食料、631万頭の耕作用家畜、4800万頭の豚・羊…が失われた」(『日本侵略軍在中国的暴行』軍事科学院外国軍事研究部編著)としています。
作戦の実態は、被害を受けた中国の民衆や、元日本軍兵士のさまざまな証言があります。「侵略はなかった」という靖国派の人たちは、中国の調査はもちろん、日本軍兵士の証言も「中国の戦犯収容所で洗脳されたもの」などといって多くを否定するので、ここでは、昭和天皇の末弟・三笠宮崇仁(たかひと)の証言だけをあげます。
三笠宮は「支那派遣軍総参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任したときに、日本軍の残虐行為を知らされました」「ごくわずかしか例があげられませんが、それはまことに氷山の一角にすぎないものとお考え下さい」と前置きし、書いています。
「ある青年将校―私の陸士時代の同期生だったからショックも強かったのです―から、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかぎる、と聞きました。また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。その実験に参加したある高級軍医は、かつて満州を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿(きょう)の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが成功しなかった、と語っていました」(『古代オリエント史と私』学生社、84年6月刊)
華北における掃討作戦は、南京大虐殺、七三一部隊、毒ガス使用とともに日本侵略軍の残虐さを象徴するものです。(喜)
〔2008・12・3(水)〕