2008年12月10日(水)「しんぶん赤旗」
中国・北坦村の毒ガス虐殺事件とは?
〈問い〉中国・河北省北坦村で日本軍は毒ガスを使ったと聞きました。どんな事件ですか? あまり知られていないのはなぜ?(静岡・一読者)
〈答え〉中国・河北省の北坦村は、北京市から南西へ車で4時間ほどの平原にあります。1942年5月27日、日本の北支那方面軍の第110師団の一大隊が抗日根拠地になっていたこの村を急襲しました。当時、220世帯、1227人が住んでいました。村民は日本軍から逃れるため、全村を掘りつないでいた坑道に隠れました。そこに日本軍は毒ガスを投入したのです。坑道は地獄と化し、中毒死、刺殺、銃殺によって800〜1100人が殺されました。女性は、毒ガスで殺害されたほか、多数が強かんされました。
村にある虐殺記念碑には、多くの被害者名とともに「それは…最も悲しみの大きな一日だった。…我々が『五二七』の惨状を忘れることは永遠にありえない。まだ母親の懐を離れない多くの乳飲み子と彼らの母親が、ともに虐殺された。烈士たちの鮮血は黄土を赤く染めた。八百人の遺体は、通りいっぱいに横たわった…」と刻まれています。
毒ガス使用は、北坦村だけでなく、中国全土で「2千回以上」におよび死傷者は9万4千人以上と推計されています。(紀学仁『日本軍の化学戦』大月書店)
こんな残虐な毒ガス使用があまり知られていないのは、戦前は日本軍が、戦後はアメリカ占領軍が隠したからです。
化学兵器や細菌兵器などの残虐兵器は25年のジュネーブ条約で国際法違反とされました。このため、第1次世界大戦後、化学兵器の開発を始めた陸軍は、毒ガス製造工場を設置した広島県の大久野島を地図上から消すなど、秘密主義を徹底。中国への侵略戦争を始めると、化学戦部隊を戦場へ派遣、関東軍は化学戦部隊・516部隊を満州のチチハルに創設。36年に創設した細菌戦部隊・731部隊と共同し毒ガスの生体実験も行いますが、すべて軍事機密とされ、毒ガスも「あか筒」「みどり筒」と呼称。敗戦直前の撤退時にも証拠隠滅をはかりました。
しかし、戦争中から毒ガス使用を非難してきた中国国民政府と米国は、証拠をつかんでおり、戦後当初は、日本軍の毒ガス使用を国際法違反として裁くはずでした。ところが、一転、アメリカは日本軍の生体実験などの研究データを渡す条件で関係者を免罪し、東京裁判では、毒ガスや細菌兵器の犯罪解明をいっさいせず隠したのです。(喜)
〈参考〉日中韓3国歴史教材委員会『未来をひらく歴史』(高文研)、石切山英彰『日本軍毒ガス作戦の村』(高文研)、歩平『日本の中国侵略と毒ガス兵器』(明石書店)
〔2008・12・10(水)〕