2009年1月15日(木)「しんぶん赤旗」

特高に殺された京都出身の教師、倉岡愛穂とは?


 〈問い〉戦前、京都出身で特高に殺された倉岡という教師がいると聞きました。どんな人ですか?(京都・一読者)

 〈答え〉戦前、天皇制政府は「国定教科書」から少しでもはみだす教育はいっさい許さず、民主的な教育者にはげしい弾圧を加えました。1937(昭和12)年、特高によって虐殺された教師、倉岡愛穂(くらおかよしお)は、その犠牲者の一人です。

 倉岡は、1895(明治28)年2月、京都府竹野郡上宇川村(現・京丹後市)の農家で生まれ、京都師範学校を卒業し、郷里近くの中浜小学校訓導となります。

 折から発表された河上肇の「貧乏物語」に影響を受け、新教育運動の共鳴者として、自然に親しむ学校教育などを地道にすすめ、28歳のとき、虎杖(いたどり)小学校校長になります。しかし、丹後の潮風のせいか気管をいため校長は1年で辞め、気候温暖な神戸市の御蔵小学校へ転任します。

 倉岡は、同小の窪田弘道、下村鋼三ら若い教師たちと「チョンガー会」(独身会)という学習サークルをつくり、子どもを戦争に駆り立てるよりもよく考える子どもを育てていこうと話し合い、32年5月には新興教育研究所兵庫支局を結成、その中心となります。

 窪田は後に「殺してかえすとはなにごとか」という一文の中で、「先生の家で読んだ『赤旗』とその『レポ』の小林多喜二の虐殺のこと」、約千冊の蔵書には発売禁止にされた本のほとんどをふくむ社会科学の重要な文献が集められていたこと、授業は「すばらしく円熟していて、校長が出題する一斉学力テストは各課いつも一番の成績であった。綴り方の文集を作ると、子どもたちは生活を生き生きと書いた」ことなどの思い出を書いています。

 34年には、校長は視学と打ち合わせて、雑誌『児童問題研究』を持っていたことを口実に10人余の教師を人事異動、倉岡も二葉小学校に転任になります。

 36年12月、人民戦線をめざして活動する人々が関西9府県だけで数百人が一斉検挙され、倉岡、窪田、下村らも逮捕されます。神戸市の御影警察署に連行された倉岡は、屈せずたたかい、逮捕106日目の37年4月9日、拷問のため死去します。42歳でした。警察は、死去後10時間も過ぎてから遺族に連絡をとり、「葬式を出さないという条件で死体を引き取れ」と命じました。拷問死があばかれるのをおそれたのです。

 丹後半島の北端、宇川の丘の上にある倉岡の墓碑には「平和を愛し戦争に反対して未決百五十七日取調中に殺された」と記されています。(喜)

 〈参考〉岡本康『革新京都の先駆者たち〜治安維持法犠牲者の群像』(つむぎ出版)、大槻健、寒川道夫、井野川潔編『いばらの道をふみこえて―治安維持法と教育』(民衆社)

〔2009・1・15(木)〕


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